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2015年07月10日 (22:30)

生存確認

生きております。

カメラブログを別に立ち上げて細々と活動中。
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2014年10月12日 (00:28)

チキュウノカゲニ カクレタツキハ アカクソマリ

オコッテイルノカ テレテイルノカ カンジョウハヨミトレナイ

マモナク クモニモカクレ ミエナクナッテシマッタ

マタアス ナニゲナイ イツモノ カオデ ヤッテクルノダロウ

ウレシイノカ カナシイノカ カンジョウノヨミトレナイ

マッシロナ ツキトナッテ マタハジメカラ デアイタイ
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2014年10月12日 (00:21)

輝かしい者

突然 世界の終わりがきたのに
窓辺には明るい陽が差している
いつの日か いつの日か 今の 今にも
もっと光がほしい それ以上にもっと闇がほしい
まぶしくて目も開けられないほどの
きっとその哀しみも きっとその喜びも
みえなくなってしまえばいい こわれてしまえばいい
静かに眠って また目が醒めて
たどりつけない 明日に
永遠の毎日が 繰り返される
美しい その体が 美しい その瞳に
なんで なんでこんなに体が熱いの
どうして どうして 瞳に涙が溢れるの
その理由をいくら探しても
窓辺には明るい陽が差している
古めかしいくすんだ色のベッドを照らしている
椅子とテーブルが無造作に転がっている
ただそれだけでいい そんな翳りゆくものによって
毎日が永遠に続けば きっといつか明日がくる
そのときはもう
あなたが何を話しているのか 全くわからない
ただ想像した その言葉のみで
形成された 輝かしい者よ
形成された 輝かしい者よ
形成された 輝かしい者よ
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2014年04月29日 (17:34)

五行詩

でも白紙には 戻らない 書き続けないと

その線は消えて やがて点になって

動くこともできなくなってしまった 心のよう

小さく 小さく ふるえてた指で

白い紙に いくら白い線を書いても もう伝わらない

2013年10月28日 (19:56)

写真を撮る理由

ひさびさに写真を撮る夢をみた。どこかの山の中を歩いていて、とある民家の窓がとても古めかしくていい感じだったので、それを夢中で撮ろうとしているが、中の人が窓を開けてしまったり、なぜか女子高生が横切って窓に映ってしまったりで、なかなかうまく撮れないという夢であった。

写真を撮る夢をみるのは、僕の場合、写真を撮りたいという欲求のあらわれのようだ。現実にある程度の写真を撮っていると、この夢はあまり見なくなるが、しばらく撮っていないだけで、発作のようにこの夢をみてしまう。とてもよい光景が夢の中にでるから、好きな夢ではあるだが、反面もどかしくもある。

そして目が醒めて、写真が無性に撮りたくなるのである。「朝、目が醒めて、歌を歌いたいと思ったなら、あなたは歌手よ」と何かの映画で聞いた覚えがある。些か我田引水ながら、朝、目が醒めて、写真が撮りたいと思えば、それはもう写真家なのではないだろうかとも思うのである。

若い頃は、目が醒めては詩を書きたいと思う朝を、幾度となく迎えていたものである。その頃の僕が詩人だったのかどうかはわからない。詩を職業としていた人を尊敬していたように、今は写真を職業とする人を尊敬する。職業とするとは、それでお金を稼ぐと云うことだ。僕の尊敬する詩人は、「詩では食べてゆけない」と話していた。それを聞いて僕は詩人になることを断念したわけであるが、考えてみれば、詩では食べてゆけないと云われて、詩人になることをやめると云うことは、人間では食べてゆけないと云われて、人間をやめるようなものだと気づいた。

今の僕では間違いなく、写真では食べてゆけないだろう。でもそれでも写真を撮り続けるワケは何だろう。写真は真実を写すと書くと人は言う。てっきり写した対象の真実の姿を写すからなのだと思い込んでいたが、実は写真を撮っている自分の心の中の真実をも写すものなのかも知れないと、今日ふと思ったのだった。写真を撮る明確な理由などはないのかも知れない。それでもその理由を求めるとするなら、僕が写真を撮るのは、僕がこの世に生まれてきたからなのだろう。
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2013年09月16日 (06:02)

写真と想い

「写真は想いが入ってないと撮る意味がない」という言葉を耳にした。
ただ好きだと思ってシャッターを切れば、そこにはすでに想いが入っているはずだと応えた。が、
写真と想い(思い)について・・・
そもそも想いの入っていない写真などは撮れない気もする。
どんなに適当に、徒にシャッターを切ったとしても、そこには何かしらの意図が介在している。
写真と想いは切っても切れない。それでいて実はこの両者は決定的に乖離している。
撮った写真には、触れることはできないという意味においては、物理的に解離さえしている。
どんなに言葉で花の美しさを語ろうと、その言葉は花自身に触れることはできない。
同じように、どんなに美しい花の写真を撮ろうと、その写真は花自身に触れることはできない。
写真も、詩も、この絶対的な断絶から始めなければならない。そして永遠に辿り着くことはできない。
その絶望を知っているからこそ、想いが入っていないと撮る意味がないという言葉が生まれたのかも知れない。
僕が街並みを撮るとき、この眼前に広がる風景が、
いつか滅びて廃墟になってしまう遠い(?)未来を想いながらシャッターを切っている。
いつもいつもではないが・・・ただ何かしらのセンサーが反応してピンときたから
「好きです」と告白するようにシャッターを切ることもある。
その逆に、誰もいない風景には、いつかいたであろう過去の人たちを想いながら撮ったりもする。
いつもいつもではないが、嫌いなものに敢えてファインダーを覗く場合もある。
そしていつかその写真を見返したときに、懐かしいなと感じる未来は、果たして幸福だろうかと考える。
その写真はおそらく自分の死んだ後にさえ、想いを含めてある程度の期間は残り続けるだろうが、
そのハードディスクの奥底で、はたまたflickrの片隅で眠り続ける写真の意味とは何か・・・
写真はそういった懐古主義的且つ刹那的な想いが入った時点で、皮肉にも永遠性が失われている。
先日、観に行ったアンドレアス・グルスキーがそれを見事に看破していたように。
想いは永遠には続かない。命は短い。Art is long, life is short.
その想いが残ってゆくことは、誰かにとって意味があるか。大仰に云えば、世界にとって意味があるか。
伝わって欲しい想いと、伝わって欲しくない想いもまたあって、
それは巧妙に暗号化されて、言葉や写真の中に閉じ込められている。
その鍵は、自分自身の心の中にしかない、と信じている。
誰にも開けることができないと信じられつつも、誰かに開けて欲しいという矛盾した、
暗号化された想いが、いたるところに転がり始めて、
繋がっていた想いは、線となり、点となり、やがて時間という波の中に消えて行く。
それを繋ぎとめる為の、手段としての写真。カメラと想いが反応した結果としての写真。
僕はなぜ写真を撮るのか?それは僕がこの世界に生まれてきたからなのだろう。
だが想いとはひとつのフィルダーにすぎない。それは減光フィルターなんかと同じくらいの要素なのかも知れない。
それは幾重にも重なり合って、誰かのフィルターすら通されて、
もしかしたらまったく別の世界がそこには生まれているのかも知れない。
存在することの意味・・・否、存在することに意味はない。ただそこに在りたい。
言葉がそこに在るように、写真がそこに在るように、自分もまたそこに在りたい。
写真にはそういった「想い」を超えた、「願い」が込められている。

2013年08月25日 (18:24)

photo

最近は専ら写真を撮っております。

http://www.flickr.com/photos/crazyhal/
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