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2008年03月06日 (01:16)

言葉にしない

思考をうまく言葉に表現できなくて、もどかしいことが多くなってきた気がする。なんというか脳内がオーバーフローしてしまう感覚。ある考えについて、ふたつの選択肢を見つけて、それを同時に選択して、さらにそのひとつひとつについてふたつの選択肢を見つけて、それがどんどん増えていってしまう。樹の枝が一瞬にして、広がっていくような感覚はまるで、涙する時のよう。広がってしまった枝葉末節の伏線をひとつの結末に収斂させるのが小説家の仕事と某作家は云っていたが、私にはとてもそんなことはできそうにない。

例えばこんなときに私の思考がオーバーフローする。ひょんなことで自分のことを頭が良いと曰っている相手に、その程度のことで頭が良いと思うのは頭が良くない証拠だよと皮肉った時。では逆に自分のことを愚かだと思っている人間は、そのことに気づいているから本当は愚かではないことの証ではないのかという思考が対として生まれる。では自らを愚かだと思うことは、愚かだと思っている自分に気づいている賢さを、はじめから絶対矛盾の自己同一的に肯定する為ではないかという考えが浮かぶのである。

そして、人間と他の動物との間の絶対的な差異とは、この「気づいている」ということに由来するのではないかと思い、さらには、始めに述べた、思考をうまく言葉にできないということは、感覚としては気づいていることをうまく言葉にできていないだけで、私という存在自体は言葉を超えたところに感覚として屹立している証であるという自己肯定に至るのである。

更にここで思考は分岐する。言葉にできない感覚だけでなく、言葉にできる感覚を敢えて言葉にしないことの意味を問い始め、それは形骸化の回避であると同時に、言葉にしないことの不安と安心のせめぎ合いでもあることに気づくのである。私のあの時、夢を見た時に感じたあの気韻は、こうしてどんなに言葉を積み重ねようとも、その単なる分析や説明に止まり、決して言葉では表現できないことの絶望のうちに終わり、そしてそれは同時に侵されない領域の確立でもあったのだろう。

言葉に表現することとは、自分自身にとっては、時としてそれを糸口にして思い出すための道具に過ぎない。他者に伝わらなくていいなら、言葉にしなくていいのに、言葉にしてしまうのはなぜだろう。言葉にしないこととは、言葉にできないこと。言葉にできないことを、言葉にすることを、私はしようとしている。だからこそその僅かな隙間に「私」が生まれる可能性が残されていると感じるのかも知れない。

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