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2015年10月29日 (22:51)

Memory

設定ではなく、自分にはある特殊な能力があることに気づいた。

それはかなり事細かに誰が何を言ったのかを覚えていると言うことだ。それはほぼ物心つく頃までにさかのぼることができる。会議などをやっても議事録を作る必要がないほどに覚えている。かといって暗記が強いという感覚とは違う。もちろん忘れてしまったことは、覚えていないという認識が自己の閉回路内のみでは不可能であるという点に於いては、本当に全てを覚えているという分けではないと思うが、それにしても状況記憶に言葉の記憶が強くともなっている。この記憶の強化は、ある筋道を通して感情的に納得し、且つ論理的整合性によって整理されている言葉の記憶がすなわち強く海馬を超えて残っていると推測される。

最近これの弊害に陥りつつある。それはあるちょっとした過去の記憶の糸を辿っていると、そこから芋づる式に記憶が引き出されてしまい、脳内がオーバーフロー気味になるということだ。もちろん自制することはできる。それは今というリアルに集中することで、その回路を遮断するという方法だ。そこで考えた。全ての記憶が同時にフラッシュバックしてきたらどうなるのかと恐怖する。
まるでセフィロトの樹のように体系化された全体の散逸構造が焼き付くようにせまるイメージ。少しドキドキして、自制せずに耽溺しようとも思うが、吾が脳が耐えられそうにもない。

この記憶の累積によって、今のこの存在の自我が形成されているというのに、それをかたくなに拒否していることに矛盾を感じずにはいられない。とても無意味な気がしてきて、孤独感にさいなまれる。今にも愛する人に寄り添いたいとも思う。今にも満天の星空を眺めることで忘れたいと思う。今にも目の前のスマホに集中することで狂気を回避したいと思う。今にも忘れてしまいたいと思う。ただそのためだけに眠ってしまおうと思う。忘れることは幸福である。しかし目覚めてもなお私が私でいられることも幸福である。たくさんの景色を、写真におさめたいと思うことに一抹の疑念がよぎる。こんなにもたくさんの素晴らしい景色を、写真におさめ、記憶を固定してしまって、私はその膨大な絵の洪水に耐えられるだろうか。その膨大な絵の集積が私という存在にどのように関わり意味しているというのか。それがもし無意味なものなのだとしたら。一体この私はどこにいて、何にすがればいいのか。私が私であることの意味を、写真は教えてくれるのだろうか。それを探すために、撮り続けることに果たして意味があるのだろうか。

ただ結局、そんなことを言ってしまえば何をしても同じなのだ。釣りをしようが、山に登ろうが、散歩をしようが。ではなぜそのような行動を起こすのか。何の為に?そこに山があるからだなどというのはもはや戯れ言。嗚呼、そうだ。私は唐突に無性に、愛したい。ただそれだけなのだ。記憶することが愛ではない。記録することも愛ではない。愛することを記憶し、愛したことを記録する。
私はハードディスクに記録されたデータではなく、さりとてハードディスクに記録することで私が発露するでもなく。その狭間でゆらぐただの、ただの、ただの。。

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