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2008年11月23日 (01:08)

クオリアについての考察

茂木健一郎の論文を読んでます。

その中で以下のような記述がありました。

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例えば、ヴァイオリンの音を周波数分解しても、それはヴァイオリンの音のクオリアを理解する上では何の役にも立たない。同じように、色とは光の波長のことであるというのは、おおいなる誤解である。
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学生の頃、授業で「人がものを見る時に、最初に目に入ってくるのはなにか?」と質問されて困ったことがある。立ったまま僕は二分くらい何も言えずに黙っていた。そばで誰かが「マツゲ、マツゲ」と囁いていたのを覚えている。結局、ぼくは「光」と答えた。先生も納得していた。あとで友達に「なぜあんなに悩んでいたの?」と不思議がられた。最初に目に入るものは、おそらく光なのだろう。光が見えて、色となり、形が分かり、それが何であるかがわかり、それについての記憶が展開されて、感情や理性が働く。悩んでいたのは光→色の間の部分だったのだと今さらながらわかった。 断じてマツゲではなかった、と思いたい。

どう考えても、この色という感覚は、光そのものでは無いではないか。つまり私の脳の仕組みがそう見ているだけで、客観的な同一性などは保証されていないではないか。つまりみながそれを白と言っているが、もしかしたら私が見ている「黒い色」を、他の誰かは白と認識しているかもしれないではないか。白と認識していながらも、それを黒と呼んでいるかも知れないではないか。それは色の波長などとは関係ないのではないか。つまり波長が長ければ赤になるが、その赤を、誰かは私の見ている「青」に見えているかも知れない!


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空間の中で、「私」という視点が占める特別性と、時間の流れの中で「今」という時点が占める特別性の間には、何らかの内的な関連性があるように思われる。
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認識に於けるマッハの原理。私が存在するのは、宇宙の彼方のどこかにある泡がはじけなかったお陰である。すべての世界はひとつであり、何かひとつが欠けても世界は成り立たない。私という感覚。自我。これもまた過去があり、未来があるだろうから、今があるのである。それと同じように私もある。過去も未来もない、今などはないし私もいない。また私は個ではなりたたない。私は、私の周りに空間や質量が存在するから、私という物質的な存在を許可されているし、先祖がいた因果律によって脈々と生存している。脳内に於いても、ニューロンはひとつの発火では、何の意味もなく、その相互の関係性、さらに飛躍するならば、ニューロンは発火しない部分がなければ、発火する部分すら無意味で、それは相互に支配されている。宇宙のどこかの泡のような全く無関係と思われるようなものさえ、エンタングルメントされたように関係性があるのである。

なぜ意識が存在して、心があり、感覚質を感じ得るのかは、人間そのものを言葉によって作り出せないことから、理会することは不可能と思われる。人間は人間自身を理解できない。それは1/1の地球儀を作るような途方もない作業である。こうした絶望という限定をつねに抱えてなくてはならない。人間の能力は無限ではない。宇宙にもし心があったとしても、それをどうやって理解しようというのだろう。そうこの世界は、人間を超えているのだ!

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