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2008年11月14日 (20:30)

小林秀雄の講演を聞いて、もののあわれについて思う

一昨日から小林秀雄講演の第一巻から第五巻までを聞いてみた。茂木健一郎が脳と仮想の中で言及している部分が多々あって、興味を持ったからだ。小林秀雄の著作は読んだことはない。講演はそれなりに衝撃的であった。

「人間が本当に自由なら、科学など必要ない」

という言葉が印象的。科学は運命を偶然と言い、宿命を必然などと言う。私が生まれてきたのが偶然なら、誰かが生まれてこなかったのもまた偶然で、偶然は何も語ることはない。もし本当に自由なら、言葉すらいらないのかも知れない。心だけで十分だったはずだ。

心は多くのものを疑い、また多くのものを信じているけど、信じていることにすら気づいていないものが余りに多い。大切なのは本当か嘘かではない。どれだけ信じ、愛し、楽しむことができるか。それに気づくことで人間は、科学という無限の彼方に光を見いだす迷信かもしれない暗闇に打ち勝つことができる。

もののあわれについても言及していた。もののあわれは、感情ではなく、知ることであるという。茂木健一郎がカントについて引用していた、対象は決して知り得ない、という言葉と矛盾するように思われたが、仮想上でこの二人が対談したら高橋悠治との対論以上に面白いかもなぁ。

人間は、決して知りえないというより、答えは出せない。問うことの方が重要で、答えは重要ではない。なぜなら答えはでないからだ。答えがでないこととは、つまり生きる本当の意味とは、本当に結婚するべき理想の相手とは、など多岐に渡ると思うが、そんなことに答えがあると信じてしまうのはナンセンスだと思った方が楽に生きられる。答えがないと気づいた時、自分にはどうすることもできないと知ること、それがもののあわれなのだという。

私は生きている。身体があり、血が流れている。そして意識がある。息が止まり、血が止まり、意識が止まる。けれど血の流れは意識を表さない。それでも意識は血に宿る。この身体に宿る。身体は物に過ぎない。止まった時の中では血は流れない。時が意識を生む。時によって血が流れる。その全てが時によって繋ぎ止められるように、この血の流れが、私の意識と身体を繋ぎ止める。けれど血の流れは、私ではない。私ではあるけれど、私の魂の座標を決定するための答えではない。これもまたあわれというのだろうか。

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