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2008年10月25日 (20:53)

記号論にひそむ違和感

母の友達が子供を連れて遊びに来ている。
隣の部屋で、子供の声が聞こえた。

子供「なんで猫が二匹いるの?」
父「犬だよ」

なるほど子供にとってはその動物は確かに猫だったのだ。
これは言葉の恣意性を表している。

つまりシニフィエ(存在≒動物)のシニフィアン(影≒言葉)が「犬」であろうと「猫」であろうと、本来、どちらでもよかったということだ。言葉は差異にすぎない。他のものと区別して、全体としてのシーニュの自己同一性が保たれればよい。

というのが記号論であるが、でもこれには漠然とした違和感がともなう。恣意的といえど、決められた途端に、そこには圧倒的な必然性がともなうことだ。

私の違和感は次のことである。「犬」をここでは一般的に「A」としよう。

<AをAと名づけなければ、AはAではないのか?>

つまり、

AをAと{思わなければ・決めつけなければ}、AはAではないということだろうか?

具体的な言葉に置き換えると…

愛を愛と{思わなければ・決めつけなければ}、愛は愛ではないということだろうか?

これは大きな問題のように思われる。

なぜならこの文体を倒置すると、

愛は愛ではないから、愛を愛と{思わなければ・決めつけなければ}ならないのか?

となるからである。

私は私ではないから、私を私と{思わなければ・決めつけなければ}ならないのか?

では私を私と名づける以前は、AをAと名づける以前は、

それは一体なんだったのだろうか?

名づけた途端に、遠くにあったものがあっという間に手元に届く、

決して手に入らない宇宙の果てにある何かさえも。

遠くにあった感情さえもが、言葉により眼前に現れ、傷つくこともある。

その圧倒的な接着力に、もともと数十光年の「間」があったことすら忘れる。

その間にこそ、沢山の大切なものがあったような気がするのに。

今もまさにあるような気がする。

そこは闇だ。

言葉が光だとしても、闇は残しておかなくてはならない。

そこに全てを隠せる。そこに全てが眠る。

しかしどうしても見たい。

そうして照らした途端に、闇は闇でなくなる。

私は言葉でもって、闇を闇のまま、光で照らそうとしている。

そう思えば、

目に入る、光の確かさが疎ましくて、部屋の灯りを消した。

この部屋は薄暗く、そして薄明るい。

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