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2010年12月29日 (21:30)

多面体テレパシー

物事を両面的乃至は多面的にみることが必要だ。ひとつの事象は、同時にふたつの視点からみれば全く逆のことのようにも見えてくる。極端な一般論を引き合いにすれば、不幸だと想っていたことが、実は幸福だったなどということもあるやもしれない。そんな説教じみたもっともらしい論説は実は詭弁なのではないかと訝しむことで推論を深めることにしてみたい。

プラス思考やらマイナス思考やらという思考そのものがもはや着眼点としてずれている気がしなくもない。抑もプラス思考と云っている時点で、既にそれ以前に何かしらのマイナス的要因があることを想像させ、それを乗り越えようとしていることを先駆的に予見させるからだ。もしくはプラスとマイナス因子が同時に存在し、どちらに倒れ込むか(当事者の名誉を重んじて選択するかと言い直してもよいが)によって自らに折り合いをつける行為に過ぎないと考えられる。

いずれにしても肯定か否定によって成り立つきわめてデジタルな思考回路は、皮肉にも論理的に破綻しやすい。部分否定が全否定になることもあるからだ。たった一言の言葉が、今まで築いてきた全ての信頼を失うこともあるように。小さな部分が、大きな全体を否定することができるのである。それをしないことは難しい。小さな部分という事実は、当事者には大きな部分であり小さな全体にもなるから。はたまた小さな部分を見いだした途端に、大きな全体は不確実になり、大きな全体を見いだそうとすれば、小さな部分は見えなくなってしまうというハイゼンベルク的なジレンマにも陥りそうである。

ここまで書いて私はどういう結論を求めているかというと、始めに書いた「物事を両面的乃至は多面的にみることが必要だ」を否定する方法を見いだしたかったのだ。畢竟、簡単に云ってしまえば「物事を両面的乃至は多面的にみることが必要ではない」ということになる。それならその根拠を示せと云う流れになるのは必定だ。仮にふたつの見方が出来たとしても、それを歩むとなればどちらかひとつを選ぶということになる。選んだ結果の正誤は問題ではない。どちらもが正しい場合もあるし、逆の場合もあるからだ。そもそも見方がふたつなのであって、事象はひとつなのである。考え方次第で事象は変化することはない。捉え方が変わったのは当事者の問題であり、環境や状況はなにひとつ変わらない。

喩え捉え方が変わり、心境が変わって、仮に幸せだと思えたとしても、それは誤魔化しているにすぎない。とするならば、もはやみることは必要ない。何もみないように目をつぶっていればいいのだ。全ての関係を断絶してしまえばいいのだ。この世はすべて偽りであり虚像である。なんとも虚無的な流れになってきたが、ここまでくれば「物事を両面的乃至は多面的にみることが必要だ」ということが背理的に証明されたようなものだろうか…。いやそうはなりたくない。なんとなくどうしても。必要であるという場合と、必要ではないという場合のどちらにも納得のゆくエレガントな思考回路が確立されなくては、選択するという大いなる意志の尊厳を否定してしまいそうだからである。
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2010年12月29日 (20:28)

五行詩

続くことの幸せを与えられた喜びをひそかに

最悪のシナリオは 頭の中だけに渦巻かせて

はやく脱出したいよ 希望のある未来へ

絶対なんて 絶対にないからなんて

考えてみれば プラスにもマイナスにもとれて

2010年12月29日 (12:10)

多種感覚相互作用

共感覚から派生されて(?)、多種感覚相互作用というものがあるようだ。いろいろな感覚が混沌と融合してしまう状態。私は音楽を聴きながら寝ると、そういう状態に良い意味でおちいりやすい。音が色に変換されることもあるが、どちらかというと音が幾何学模様になることが多い。まるで万華鏡を覗いたときのように、それがうごめいているのがはっきりと「見える」のだ。一説によるとクラシック音楽は幾何学模様らしいのだが、私の脳内に於いてはどんな音楽でも幾何学模様になりえる。その相互作用は圧倒的なクオリアを伴っている(たとえるなら現実としか思えないほどリアルな夢)から、経験としてはそれだけでも驚愕なのだが、こうして文章にしてしまうと、波動としての音が単に幾何学模様になったという、なんとも眉唾な感じにしか表現できないのではあるが、私の場合の驚愕はその後の感情との結びつきに於いて発露するといえる。一方向的な変換というよりは、幾何学模様を媒介とした双方向的な変換である。音→幾何学模様←感情。と表せばわかりやすいだろうか。ここでことわっておきたいのは、音と感情の間にはなんの必然的な関係性がないということだ。この世界と私の間にもなんの関係性もないように。するとやにわに幾何学模様自体が、感情「そのもの」になるのである。その時の感情が「愛」であった場合には、なんともどすぐろくうごめいている幾何学模様を観察することによって、ああ、これが愛なのかという疑いようのない「納得」が訪れる。尤もこれは白昼夢的な感覚の錯誤による全能感にも近いが…。長くなってしまったがこの多種感覚相互作用というものは、あらゆる感覚に起こりえるとするならば、この私という波動存在そのものにも起こりえるということだ。消えていった者たちの残滓を花の中にみることができるように。認識し、知覚するということは色や形や心だけでなく、この存在さえに迫ってくる。私という存在は、他者からみれば単なる幾何学模様に過ぎないのかもしれないという点に於いて、それはひとつの希望だ。

2010年12月28日 (00:25)

五行詩

くるおしくて どうすることもできなくて

ただ新しい光が動きはじめて

やがて意志を持つその日まで

未来を想像することを許された日々が

続くことの幸せを与えられた喜びをひそかに

2010年12月28日 (00:10)

パラレルワールド{ヘニーデ的加速感}

とても小さい箱の中に閉じ込められた {たとえばこのテキストボックス}
それはぼくの凶暴性ゆえの措置であった {饒舌的な刺激}

ありえないくらいの小さな空間に {ほぼ無に近い}
ぎっしりとぼくたちは隠れてしまって {無意味な言葉の羅列の満員電車}

行方不明になったみたいに哀しまれた {一体どこの私が}
電池切れになればでてこれる気がした {意識はもはや仮想}

それを必死に守ろうとしている {必ず死ぬとしても}
外の世界の者たちが成し遂げようとしている {中の者は脇役にすぎない}

報酬は達成された過程にあると気づき {それこそが弱者の証}
喜ばれたことそのものであるようだ {それこそが最後の望み}

美しい世界があるのではなくて {自然は意図しない}
それを美しいと思う心があるだけだった {クオリアすら既に脚色された}

絶望がないとするなら希望もないけれど {絶対矛盾的に}
絶望があるとするなら希望もあるようだ {自己同一だ}

ぼくたちが願わなくても世界はあるけれど {乖離}
ぼくたちが願うならば世界は変わる気もする {命を賭してでも?}

それを経験することと {疑いようのない}
それを理解することはまた違う {圧倒的な差異は恣意的ですらない}

赤を視ることと {それからめまぐるしく}
赤を理解することが違うように {もはや理解不能}

あなたを観ることと {観測者が影響を及ぼす きわめて相対的に}
あなたを理解することもまた違うように {それならばエポケーしよう}

ただありのままの世界があることと {(´Å`●)ボェ~}
それを美しいと想う心の間は {この世とあの世の距離よりも遠い}

それならばたったひとつの頂点の為ではなく距離を埋める為にこそ {疾走する}
私は存在するのでしょう {意味などなくてもいいけれど}

2010年12月24日 (06:49)

心を写す手段

夢の中。ミニチュアの箱庭を写真におさめると、まるで本物のどこかの外国の風景になった。素晴らしい景色の数々は、覚醒を前にして、いつものようにメモリーからパソコンに移す際に、やはり消えてしまう。しかし待てよ、この心に焼きついた光景だけは、目が醒めた後も残るではないか。どうしてもこの風景を残したい。そうか画家は心の写真家なんだ。写真ではなく、写心という意味で。多分、こんな夢を見るのは、昨日の晴れ渡った日に写真を撮らなかった後悔からかも。

2010年12月23日 (10:14)

五行詩

いとおしくて ほのぐらくて けなげで

たよりなさげで たどたどしくて

ゆらゆらと たゆたんで やすらかに

すやすやと すこやかに はかなくて

くるおしくて どうすることもできなくて

2010年12月23日 (10:11)

五行詩

希望と不安だけが まじりあう

織りなされた 未来が モノクロに

あざやかに染まっていく

そう想うことができる この今が

いとおしくて ほのぐらくて けなげで

2010年12月20日 (21:34)

断    捨    離

今なうなツイッターは一行くらいの感情を吐露したいときだとか、ミクシーはちょっと現実よりの話を適当にとか、ブログは趣味とか感性を磨くためにだとか、大袈裟だけどなんだか自我の場がバラバラになってしまうような感覚はありませんか。

単なる懐古主義かもだけど、すごく以前はブログという言葉すらなくて、Web日記だとか云われていた時代は、リアルの友人だとか知人には全く知られていなかったから、匿名性から精神を解き放った文章表現の自由があったのように今思えばそんな気がします。

表現をする場にも断捨離が必要な気がしてきました。選択する自由がありすぎて、逆に自分自身のアイデンティティに自由がなくなっている気がするから。なぜ捨てるんだろう。そうか自由を得るために、捨てるんだ。自分を取り戻すために、捨てるんだ。でも最高の自由は、現実を、自分を、自由すらを捨てることなんだろうな。
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2010年12月15日 (23:15)

相棒

今日の相棒は、重い話題でしたね。以下ネタバレ。

派遣切りに遭い→家族から見捨てられ→恋人から見捨てられ→犯罪に手を染め→
喰うのにも困り試食品コーナーを徘徊し→ネットカフェも行けず貸し倉庫で寝て→
そこも追い出され→生活補助も受けられず→最後は自殺。

救いようがないけど、誰しもがどこかで一歩間違えればこういうスパイラルに陥いり、のっぴきならない状況になってしまう蓋然性があります。そうならない為にはどうすればいいか…。

「己を信じて、希望的観測を持ち、守るべきものの為に必死に生きること」

そんな綺麗事が通じるのかはわからないけれど。
いつか自分もそういう状況になる時があると思うので、したためておく。

そういえば学生時代に目に留まった雑誌にMr.Childrenが下記のような事を云っていた。うる憶え故に正確な言い回しとはほど遠い。故に括弧は省略。

自分を試すために、どん底に落ちたい、そしてそこから這い上がる自分を見てみたい。
地位も、名誉も、何もない自分、それこそが本物の自分であり、
何ものをもなくしたとしても、自分は自分であり続けるだろう。

私はその言葉に感化されて、半ば意図的に(?)大層、退廃的な学生生活を送ったと記憶している。それは単なる逃避かも知れない。その結果、この十数年間、はい上がれずに経過したわけであるが。満足している点があるとするなら、似非臥薪嘗胆することによって、他者の痛みまでとはいわずとも、ある程度の、想像力をクオリア的な側面から獲得できたことだろうか。
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2010年12月12日 (21:31)

言葉は

どんな言葉もただやみくもに、発せられたものではありません。どんなにうつろう心から発せられたにしろ、そこには必然性があるのです。決して届かない存在に、近づくためという必然性があります。それがかなわずとも、昇華するために言葉は書かれるのです。なんだかわからない漠然とした感覚を、明瞭にするために書かれるのです。あらゆる感情を共有するために書かれるのです。ですから言葉は変化します。同じ言葉でも、一度目と二度目では違います。全く同じ筈の言葉が、その発する者の心によって意味が左右されるのです。そしてまた受け取る者の心によって意味が変わってゆくのです。そう考えると言葉は、慎重に選ばなくてはなりませんが、それは心によってなされます。故にどんなに慎重になっても、間違いが発生します。そこに誤解が生じて問題がでてきます。それを回避する術はもはや沈黙しかありません。言葉の蓄積は、矛盾を生むからです。それでも言葉によって矛盾を生まないためには、ただあるがままを受け入れてそれを描くことでしかかないません。自然のあるがままではなく、己の心のあるがままを描くのです。それは難しい。どんなに高尚な画家でも不可能とも思える仕業であり、詩人でさえもままならないかもしれません。それでも言葉は発せられるのです。それはなぜか。画家でも詩人でもなく、人間だからです。

2010年12月12日 (00:30)

五行詩

ただ返しては 消えてゆく ニュートリノ

ほのぐらい光に 包まれて

小さな鼓動は 繰り返す

分裂することで 差異は生まれ

希望と不安だけが まじりあう

2010年12月12日 (00:26)

五行詩

風のように 気ままに

がらんどうの 身体に 吹きすさぶ

意味を 持たない 言葉の中にまで

全てのものは 所有できない 借り物で

ただ返しては 消えてゆく ニュートリノ

2010年12月09日 (23:38)

五行詩

未来は 哀しい

誰もいない世界に

この想いは 伝わるだろうか

雑音のように 無意味に

風のように 気ままに

2010年12月09日 (23:35)

五行詩

不確かな 心が 確かに 今

大地に 倒れ 霞んでゆく

涙を 流した 記憶さえ

なくなるのだと 想うと

未来は 哀しい

2010年12月09日 (23:25)

Call of Duty

やりたいことだけをやってるだけじゃ、人は幸せにはなれないとはよく言ったもので。するべきことをすることによって、人は正しく生きることができる。やりたいこと=するべきこと、だった場合は、幸いである。けれどもやりたいことは、ない場合もあるし、するべきことは、必ずしも「できること」ではない。否、できることは、してはいけないことの場合もある。するべきことは、人それぞれであり、必ずしもひとつではない。またひとつであると思いこむことは、不幸である。自由であり、拡散し、収斂する過程に於いて、形成されることである。皮肉にも、やりたいことをやることの意味は、それだけでは幸せにはなれないと自覚する為にあることが背理的に証明される。するべきこととは、愛を守ることだ。その為に、生きることだ。私は何もない無から生まれたのではない。言葉は今、正しく選び取られた。するべき行動によって、世界は守られる。これは義務でもなく、正義でもなく、ひとつの鼓動である。たとえ悪に倒され、大地に倒れようとも。この想いは決して、途絶えない。決して、途絶えない。
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