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2008年11月25日 (00:52)

私の人生

零代というのは、受容の時代だった。なにも望まないのに、望む以上のものがやってきた。私は愛された。ひとつの小さな運命に気づかなかった。ひとつの小さな暗闇が、世界を支配した。私は途方に暮れていた。この御しがたい己の無邪気さに。

十代というのは、無知の時代だった。何も知らずに全てを嗤っていた。それでいて絶望していた。絶望しながらスキップしては、若さに怯え、ただ漠然とした不安を抱いていた。感受性は豊かで、些細なことで運命を背負ったと思い、苦悩し、悩み、自問自答を繰り返し、答えのない問いを立て続けていた。

二十代というのは、すべてを冷めた論理的な整合性で保たないと不安な年齢だった。それでいて感情的に、否定的に排他的になり、幻滅を繰り返しては、愛する者さえも限定した。考え方は抽象的な極みに陥り、何事も一般論でしか語れなくなる。ひとつが全てになり、その全てを自分自身によってのみつくれるものと信じては、それをまた破壊しようとさえしていた。なにひとつ作り上げることはできないと、架空世界に逃避した。冒険に繰り出しては、荒波に飲み込まれた。

三十代というのは肯定の時代だった。生命は踊り、宇宙は膨張して、論理を超えた部分で理会することができるようになってきた。今まではわかったつもりになっていただけだった。一方、情に流される危険性も孕むようになってきた。つまりなまじ人の想いや考えがわかってしまうだけに、それを制しようと、説教くさくなることもあった。けれど今まで築いてきた土台は無駄にはならず、それによって新たな大地に踏み込む決意を携えることができた。

四十代は、諦念の時代だった。何もかもが中途半端でバカらしく思えた。今までやってきたことが徒労に終わる気がしたが、それさえももうどうでもよかった。老いと共に無気力感に襲われ、世界はもういつ終わってもいい気がした。それでも重くのしかかる責任感によってのみ、歩くしかなかった。これがかつて思い描いた夢の形なのかも知れない。なぜかといえば生きるしか選択肢はなかったからだ。絶望の果てに、見える希望に縋り付くように、努力は続けた。

五十代は、実りの時代だった。今までの努力が、たてつづけに実った。意図もしないのに、至るところで花を咲かせ、百花繚乱の様相を呈し始めた。もう自分の幸福が、誰かを不幸にすることもなかった。周りの皆は笑顔だった。それは信じていた証明であった。世界は私の自我より、遙かにひろかった。まるで大樹のように、私はそのひとつの枝に実っている、実に過ぎないのだ。

六十代は、自分が何もしなくても、なんでも思い通りになった。物事が右から入って左に出て行くように、世界は忙しく見えた。でもそれでいい。私はただ耳を澄ましていればよかった。心地良い音楽に、心地良い言葉に、心地良い愛に。ただ求められるがままに、手を引かれて、ゆっくりと歩いた。

七十代は、もうなにもすることがなくなった。全てはわかってしまい。悟ってしまった。若い頃は、悟れないと知ることが悟りだなどと知った風なことを考えていたが、こうして普通に生きているだけで、悟れた。全ては川の流れのように、自然だった。それでよかった。無理して堤防を築くこともなかった。無理して壁を壊すこともなかった。やがて私は海に出るだろう。

八十代は、大航海の時代だった。貿易は活発になり、時折、黄金の価値は高騰して、思っても見ない物の価値が高騰した。それは時として、私のかつて捨てた物であったりした。私は舟に乗り、敵艦隊を撃破した。沈没する船を見るのが愉快だった。甲冑を取りそろえて装備して、部下の数人を新たなる世界の開発にあたらせた。動き始めたのだ。新たなる認知への道へ。

九十代は、サイボーグの時代だった。生命は永遠に近い長さを獲得した。磁力によって動力が供給され、血は透明になった。それでも私は死を選んだのだ。

百代は、死の時代だった。私は死んでいた。もう無であるという感覚すら手に入れることができた。私はひとつの稲妻だった。私はひとつの津波だった。私はひとつの入道雲だった。わたしはひとつの宇宙になった。
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2008年11月24日 (04:14)

flower

flower200811.jpg
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2008年11月23日 (02:10)

切り取った

私は切り取った
切り取ったものが私になった
私になった何かを君は愛した

好きですと想いながら
シャッターを切って風景を切り取った
綺麗だねと君は褒めた

様々な人から 言葉を切り取った
頭にはりつけた 空々しく話した
それでも君は頷き感心してくれた

美しい花を切り取った
君は美しいねと言った

だから私はいなくなった

私は君の 風景にすぎず
私は君の 新聞にすぎず
私は君を 彩る花

私は君を切り取った
君は私を切り取った

切り取ったものは
いつまでも私のもの

君は私から
何を切り取っていったの

いつか君の愛した私なら
それはもう ただの風景
それはもう ただの新聞
それはもう ただ君だけのもの
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2008年11月23日 (01:08)

クオリアについての考察

茂木健一郎の論文を読んでます。

その中で以下のような記述がありました。

--
例えば、ヴァイオリンの音を周波数分解しても、それはヴァイオリンの音のクオリアを理解する上では何の役にも立たない。同じように、色とは光の波長のことであるというのは、おおいなる誤解である。
--

学生の頃、授業で「人がものを見る時に、最初に目に入ってくるのはなにか?」と質問されて困ったことがある。立ったまま僕は二分くらい何も言えずに黙っていた。そばで誰かが「マツゲ、マツゲ」と囁いていたのを覚えている。結局、ぼくは「光」と答えた。先生も納得していた。あとで友達に「なぜあんなに悩んでいたの?」と不思議がられた。最初に目に入るものは、おそらく光なのだろう。光が見えて、色となり、形が分かり、それが何であるかがわかり、それについての記憶が展開されて、感情や理性が働く。悩んでいたのは光→色の間の部分だったのだと今さらながらわかった。 断じてマツゲではなかった、と思いたい。

どう考えても、この色という感覚は、光そのものでは無いではないか。つまり私の脳の仕組みがそう見ているだけで、客観的な同一性などは保証されていないではないか。つまりみながそれを白と言っているが、もしかしたら私が見ている「黒い色」を、他の誰かは白と認識しているかもしれないではないか。白と認識していながらも、それを黒と呼んでいるかも知れないではないか。それは色の波長などとは関係ないのではないか。つまり波長が長ければ赤になるが、その赤を、誰かは私の見ている「青」に見えているかも知れない!


--
空間の中で、「私」という視点が占める特別性と、時間の流れの中で「今」という時点が占める特別性の間には、何らかの内的な関連性があるように思われる。
--

認識に於けるマッハの原理。私が存在するのは、宇宙の彼方のどこかにある泡がはじけなかったお陰である。すべての世界はひとつであり、何かひとつが欠けても世界は成り立たない。私という感覚。自我。これもまた過去があり、未来があるだろうから、今があるのである。それと同じように私もある。過去も未来もない、今などはないし私もいない。また私は個ではなりたたない。私は、私の周りに空間や質量が存在するから、私という物質的な存在を許可されているし、先祖がいた因果律によって脈々と生存している。脳内に於いても、ニューロンはひとつの発火では、何の意味もなく、その相互の関係性、さらに飛躍するならば、ニューロンは発火しない部分がなければ、発火する部分すら無意味で、それは相互に支配されている。宇宙のどこかの泡のような全く無関係と思われるようなものさえ、エンタングルメントされたように関係性があるのである。

なぜ意識が存在して、心があり、感覚質を感じ得るのかは、人間そのものを言葉によって作り出せないことから、理会することは不可能と思われる。人間は人間自身を理解できない。それは1/1の地球儀を作るような途方もない作業である。こうした絶望という限定をつねに抱えてなくてはならない。人間の能力は無限ではない。宇宙にもし心があったとしても、それをどうやって理解しようというのだろう。そうこの世界は、人間を超えているのだ!

2008年11月23日 (00:31)

五行詩

けれど諦めている暇さえ 人生にはないのです

過去は忘れて 前に進むために

今できることを精一杯やらなくては

可能性を捨て 確率に限定されても

私はその空の中で飛び立ちたい

2008年11月20日 (23:06)

ドビュッシー

モニク・アースのドビュッシー:ピアノ作品全集第1&2集を買ってきた。モネの印象画のような音の調べ。自分が生まれる前に、演奏され録音された音が、今生々しく再生されている。もうないはずの過去を思い起こそうとすることは印象画よりも、曖昧でとらえどころがない。不図いまその時代にタイムスリップしてもいいような気がするだけで、タイムスリップできてしまうような不思議な感覚に襲われた。音楽は全てを超える可能性を秘めている。言語を、時間を、空間を、私たちを、この宇宙を。ドレミファソラシのレミファソラまでをビュッと一気に超えて飛ばしてしまっているから、ドビュッシーなんだと昔、ラジオで誰かが冗談まじりに話していたのを思いだした。
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2008年11月19日 (21:53)

それから読了

夏目漱石『それから』を読了した。私が漱石を読んだのは、中学生の頃の読書感想文で『吾輩は猫である』の長さに挫折して、『坊ちゃん』をなんとか読み、四五年前に草枕や夢十夜を読んだ程度であった。お札にもなるのだから、さぞや立派な人物なのだろうというイメージしかなかった。草枕の有名な冒頭に「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ」とあるが、彼はこの全てを克服した人間なのだと私は勝手に判断していたのである。どうやら違ったようだ。彼が言いたかったのは、あれはそんな立派な人間になるための標語ではなく、このどれかにあてはまってしまうのが、本来の人間であると言いたかったのではないだろうか。

それから、の主人公である、代助は三十過ぎても定職にも就かず、結婚もせず、今でいうひきこもりのニートである。社会に出るるのが必ずしも偉いわけではない、自分は自分の内で考え抜いてこそ、高尚な人間を目指せるのだと信じている。食うためにやることには真剣にはなれない、どこかで妥協が折衝と名を変えて介入してくる。であるから報酬のない趣味にこそ、真に自らを発展せしめる道であると信じる。しかし食わなければ、餓死する、精神は脆弱になる、貧すれば鈍するというわけだ。その矛盾に悩む。漱石は一世紀近くも前に、まるでこの希望のない暗黒の現代を生きていたかのような葛藤に悩んでいたのだ。

一方草枕は絵画のような小説であった。何も物語ることをしないような気さえした。けれどそのひとつの絵を見てさえ、人は色々と智に働き、情に棹さし、意地を通してみようとする。途端、その絵はそうとしか目に映らなくなる。しかしそれがまた人間だ。色々な意味を付加してゆく、こうした文章もまたそのひとつであろう。「誠は天の道なり」という書のあとに、代助は「人の道にあらず」と付け加えたいと思っていた。人は天の道を歩まなくても、人の道を歩めばよい。天の道とは、社会がつくりだした既成の概念で凝り固まった道のことだろう。代助は人の道を歩む。他人の道という意味ではない、自分自身だけは欺かない道を歩むと決める。それは誰に説明しても認めてもらえない道かも知れない。理解を求めることは不可能かも知れない。角が立ち、流され、窮屈であるかも知れない。しかしその信じる道のためにこそ、人は生きることができる。

2008年11月18日 (14:01)

詩に意味はない

詩に意味はない
何も伝えたいことはい
ただそこに言葉を存在させたかっただけ
彼はそう言った

女は人間じゃない
女は生命だ
宇宙と繋がる 月によって
彼はそう言った

それなら詩は
宇宙と繋がる女
男という言葉を超えて

どんなに男が愛を囁いても
女の沈黙にはかなわない

詩は言葉を超えないと
彼は言ったが
詩は言葉を超えると
私は思う

言葉には意味があるが
詩には意味がない
という点において

それなら
女は男を超えている

男はつまらない意味を
言葉をつかって
まくしたてるだけ

何も伝えたいことなどないのに
何も意味なんてないのに

この宇宙には
この生命には
ただそこにあるだけなんだよ
この言葉だって

愛だとか 想いだとか
そんなつまらない意味から
解放してほしい

その沈黙という暗闇から
君を救い出すのではなく
私を連れて行ってほしい

言葉ではなく 手をとって



2008.11.15
詩人 谷川俊太郎さんに会って思ったこと
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2008年11月17日 (23:45)

文庫

気になっていた名作を今さらながら手にとる。夏目漱石『それから』『こころ』宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』を文教堂書店にて贖う。はじめは青空文庫をJPG画像化してから、PSPに転送して読もうかと思ったが、遉に1000以上という厖大な頁ファイル数は、煩瑣であったので諦めたのだった。縦書きにしたり、フォントを弄ったりしたのだが、矢張りデジタルメディアと文学の融合は難しい。
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2008年11月16日 (01:24)

二十億光年の孤独に出会う

今日、詩人であるところの谷川俊太郎に会いました。素晴らしい妹の粋な計らいで、三人は倖せになりました。僕は彼のその講演のある部屋に入るためにならんでいました。突然、彼は裏手から現れて僕の方に迫ってきて、かわすように列を横切りました。意表をつかれた。

まるで何か得体の知れない宇宙が迫り、横切ったような感覚でした。僕は思わず吸い込まれそうになりました。彼の詩をよく読み、感じ、知っていたはずの存在なのに、生身の身体はまるでブラックホールのようでした。そんな衝撃的な存在がわずか十センチにまで迫ったのです。これはひとつの奇跡のようでしたが、それを奇跡と認識するよりは、嗚呼、彼は人間なのだという奇妙な感慨に耽っていたのです。僕は街の雑踏の中ですれ違う人をサッと避けるような自然さを演じて、彼に道をあけました。

某ビル内、つまりは長崎屋A館5階といううらがなしくさびれた場所は、部屋に這いると椅子は案の定少なく、五、六十あるだけで、僕はその一番前に座れました。彼と僕を隔てる人はいませんでした。この本来、緊張すべき二十億光年にも似た距離に、僕は期待と共に安堵感すら感じていたのです。そして放たれた言葉は脳内に焼きつくようでした。

彼という人間がひとつの生命に見えてきて、宇宙と繋がりました。人間は社会と結びつき、生命は宇宙と結びつきます。言葉は人間の言葉であり、沈黙は宇宙の言葉です。詩は決して言葉を超えず、言葉を超えるのは人間です。詩は物を語ることなく、宇宙と結びつきます。詩は人間であり、生命でもあり、その輪切りにされたようすは僕にイカリングを連想させました。イカリングは今です。今がとめどなくつながるようすはタクワンの切り方です。

そこに刹那の愛がなくては、生きる意味がなくては、けれどぼくにはそんなに強い想いもなく、ただだらしないたくわんのように生きている。ただ零れそうなのにそそがれ続ける紙コップの水を心配して生きている。ですが彼は意外にも、詩は意味もなく、何も伝えることはないと言い切りました。ただそこに言葉を存在させたかっただけなのだと言いました。僕は救われたことに気がつきました。伝えることはないと伝えられたことに解放されたのです。

詩に意味はないけれど、詩を書く意味はあるのです。詩は自らを解放するために書かれます。そして彼はそれを多くの受け手に送り届けることで、また受け手をも解放します。その時、人間は生命となり宇宙と結びつくのです。人間は感じて、考えて、言葉を足し算します。生命はただそこにあり沈黙することで無限を語ります。そこにはこの文章のような無駄は一切ない。詩は引き算して沈黙に近づきます。詩は足し算して人間にも近づきます。論理と感性が出会うとき、言葉に詩が宿ります。

空をこえて、星の彼方にある、それは愛でしょう。ごめんなさいという言葉はビタミン剤にはならない。言葉は感情にはなれません。言葉は喜ばないし、言葉は哀しまないし、言葉には希望も絶望もなく、ただそこにあるだけだから。言葉は感情にはならない、けれど感情は言葉になります。

僕の手紙に、彼の印をもらいました。感謝の気持ちで嬉しくなりました。僕はありがとうという言葉を発する前に気がついたからです。ありがとうは言葉ではないことに。僕は魂のそこから溢れてくるこの気持ちを、ありがとうという言葉に託して、彼に向かって投げかけました。谺するのは言葉ではなく心でした。その時はじめてありがとうそのものに言葉を超えて僕は出会いました。その想いはこれからもずっと月のようにただそこにあり続けるでしょう。




tanikawa_sigh.jpg

2008年11月14日 (20:30)

小林秀雄の講演を聞いて、もののあわれについて思う

一昨日から小林秀雄講演の第一巻から第五巻までを聞いてみた。茂木健一郎が脳と仮想の中で言及している部分が多々あって、興味を持ったからだ。小林秀雄の著作は読んだことはない。講演はそれなりに衝撃的であった。

「人間が本当に自由なら、科学など必要ない」

という言葉が印象的。科学は運命を偶然と言い、宿命を必然などと言う。私が生まれてきたのが偶然なら、誰かが生まれてこなかったのもまた偶然で、偶然は何も語ることはない。もし本当に自由なら、言葉すらいらないのかも知れない。心だけで十分だったはずだ。

心は多くのものを疑い、また多くのものを信じているけど、信じていることにすら気づいていないものが余りに多い。大切なのは本当か嘘かではない。どれだけ信じ、愛し、楽しむことができるか。それに気づくことで人間は、科学という無限の彼方に光を見いだす迷信かもしれない暗闇に打ち勝つことができる。

もののあわれについても言及していた。もののあわれは、感情ではなく、知ることであるという。茂木健一郎がカントについて引用していた、対象は決して知り得ない、という言葉と矛盾するように思われたが、仮想上でこの二人が対談したら高橋悠治との対論以上に面白いかもなぁ。

人間は、決して知りえないというより、答えは出せない。問うことの方が重要で、答えは重要ではない。なぜなら答えはでないからだ。答えがでないこととは、つまり生きる本当の意味とは、本当に結婚するべき理想の相手とは、など多岐に渡ると思うが、そんなことに答えがあると信じてしまうのはナンセンスだと思った方が楽に生きられる。答えがないと気づいた時、自分にはどうすることもできないと知ること、それがもののあわれなのだという。

私は生きている。身体があり、血が流れている。そして意識がある。息が止まり、血が止まり、意識が止まる。けれど血の流れは意識を表さない。それでも意識は血に宿る。この身体に宿る。身体は物に過ぎない。止まった時の中では血は流れない。時が意識を生む。時によって血が流れる。その全てが時によって繋ぎ止められるように、この血の流れが、私の意識と身体を繋ぎ止める。けれど血の流れは、私ではない。私ではあるけれど、私の魂の座標を決定するための答えではない。これもまたあわれというのだろうか。

2008年11月13日 (02:55)

千と千尋の神隠しでブタになった両親についての考察

千と千尋の神隠しで、千尋のお父さんとお母さんが、ブタになってしまうというシーンがある。不思議なのは、ちひろがブタになってしまった両親に、愛情を抱き続けると言うことである。もうブタになってしまったのだから、これは自分の両親ではない、関係ないという感情には決してならない。これは至極尤もなことだと思うだろう。私だってブタになったことがわかっている両親を見捨てたりはしたくない。けれどこれはとても不思議だ。

たとえば死んでしまった祖母の魂は、現実にはもうどこにもない。けれど私の心の中には祖母の思い出があるから、私の中には祖母が生きていると考えることもできる。たとえばブタではあんまりなので飼い犬の一匹にその魂が宿っていると想うこともできる。試しに想ってみたが、これがまた不思議であった。飼い犬の一匹の犬の目が、突如として変わったのだ。まるで、「やっと気づいたのね、お前や、わたしはもうこんなわんこの中にしかいないけれど、ずっとお前を見守っているのだよ」とでも言われているような気がしたのである。ますます飼い犬が可愛くなり、わたしはぎゅっと抱きしめた、途端に、いつもの犬の目に戻り、戸惑うような不思議そうな顔をしていた。

私の想いによって、世界はいくらでも変わるのかも知れない。恋をした人間は、街中を通り過ぎる人全てがその想う人に見えてしまうということがあるように、もっといえば、夜空に輝く満天の星の全てが、想う人に見えてしまう人すらいるらしいから。どれだけ自分自身の中に素晴らしい世界や、素晴らしい人々を想い描けるかで、世界は輝くと信じたい。そこには確かに、千のものがひろく眠っている気がする。
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2008年11月13日 (02:54)

飛行機

人が飛行機を作る

なんのためだろう

空を飛ぶため 海外へ行くため

どうもそうではないらしい

なんのためだろう

人が飛行機を作る

金属を集めて 大空に爆音を轟かせる

なんのためだろう

夢を見るため ただ飛びたいから

どうもそうではないらしい

なんのためだろう

人が飛行機を作る

なんのためかもわからずに

ただ飛行機を作る
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2008年11月13日 (02:53)

脳と仮想

今、茂木健一郎の『脳と仮想』読了した。なんかもう絶望を通り越した感じの読後感。無限の闇の中に縛り付けられた感じである。どんなに暴れても、逃げられないような。逆に考えればどんなに自由に動いても、必ずここにいられるってことか。引用されていたカントの「対象は決して知ることができない」というような感覚がなんとなく理解できたような気がした。ちょっと興味を抱いて、十年以上前に一冊だけ買った『純粋理性批判(上)』をひっぱりだしてみたけど、やはり私には難しすぎて読む気がしない。世界や他者は尤も、私自身さえ知ることはできないというこの感覚をやっと認識できたのが嬉しい。私が確かに今、ここにいるという感覚、ただそれだけで私は私を知っているつもりになっていたのだな。
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2008年11月12日 (00:09)

饒舌と沈黙の狭間に盲目的な何か

言葉は積みかさねてゆくほどに、饒舌になり、軽くなり、無化されて、価値のない様相を呈し始める。それでは言葉を削り、少なくしてゆくほどに、重くなり、意味が宿り、やがては言葉さえも超えるだろうか。詩とは言葉の少なさにより、詩として立ち上がり、生まれているものなのだろうか。それでは更に言葉少なに、つまり沈黙することは、それは言葉か、詩か、その何ものでもないものとはなんだろう。見えないもの、この私の心の奥底にあるだろう、言葉になっていない、何か妄想のようなとりとめもない論理的な整合性すらなさない、感情的な、生まれそうな、消えてゆきそうな、そんな儚い何かに感じるこの圧倒的なリアリティ。これはなんだ。

2008年11月10日 (14:31)

ruin

ようこそ私たちの住む廃墟へ

溢れてしまった世界のはじっこ

失われたものたちが眠る庭

消えていった言葉

世に出なかった詩

気づかれなかった死

流れることのなかった涙

それが

この意味のないがらくたです

あなたの記憶も この庭に埋めて

白い とても白い


窓の外を眺めて 想うのです

人はここに平和を捨てたのだろう
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2008年11月09日 (00:26)

絶望した言葉たち

言葉は説明することしかできない
言葉は喜ばない 言葉は哀しまない
言葉は絶望なんてしない 言葉は希望なんて持たない

それをするのは 人間だ
大切なのは言葉じゃなくて 人間だ
人間は喜ぶ 人間は哀しむ
人間は絶望する 人間は希望を抱いたりする

でも人間の住んでいるこの世界は
この世界は喜ばない この世界は哀しまない
この世界は絶望なんてしない この世界は希望なんて持たない

世界は言葉のようだ
仲間はずれは人間だけ
だから人間は孤独を抱く だから人間は嫉妬する
だから人間は罵る だから人間は醜い

あなたは人間だ
わたしも人間だ
仲間はずれは世界だけ

こんなにも世界が好きなのに
それを汚して
それを愛だなんて名づける

あなたとわたしに
言葉はもはや愛想を尽かして
絶望した言葉たちは 世界の外に消えてゆく
歌を歌うために 詩を書くために 夢を見るために

2008年11月09日 (00:05)

私は私だ以外の私

バスの中でふと思う。私という自我は、遠近法の小さな点の上にあるようなものだと。「私は私だ」と思うことで得られる、私という実感はそれほど大切なものだろうか。私は私だという幻想にも似た明確な意識は常に持っているわけではなくて、茫然自失とした無意識的な生活の方が大部分を占めているような気もする。

私という生命が死ぬ、とは、私が私であるという実感と、私が私であると認識乃至は意識さえしていない部分の私、そういう部分の存在を含めて、全体が死ぬということだろう、と推測されるが、「私は私だ」的な自我の消滅は、漠然とではあるが恐れるのにもかかわらず、無意識的な部分の私が消滅することに、私はそれほど恐怖を感じることがない。

これは由々しき問題のような気がした。私は私だ以外の私は、バスの窓から見える、走り行く車にも似ている。隣を走り、どこか別の路へと消えて行く車たち、私は私だ以外の私もまた、そのようにして私の中心から消えて行くような気がしたのだ。それがなくなってしまっては、そういうコーティングというか入れもの的な、風景の図と地の関係のような、私、それがなくなったら、私は私だと思っている私は、点だけになってしまう。

それはもはや見えない。ではその見えない、ないようなものと同じような私が消えて死ぬことに、なにゆえに恐怖を感じなくてはならないのか。否、私はもはや私が死ぬことは怖くはなかった。それは苦痛を恐れないという意味合いとは、異なる気がしたけれど、私は私だ的な私は、寧ろいま私は私だ的な以外の私にさえなりたいと想ったのだ。風景に溶けこみたい。どこかへ行ってしまうあの車と同じようになりたい。ヘッドライトの光が記憶の中で、私に混ざっている。あのときの車に、私はいま乗っているだろうか。

2008年11月08日 (13:05)

Maria João Pires

ピアノスーパーレッスンにマリア・ジョアン・ピレシュが出ていた。レッスンの中で生徒にこう教えていた。

そこは急いではいけない。急がないでいい。何もない空間が不安で、満たさなくてはと思い急いでしまっている。あなたは音がないと不安だから、この何もない間に耐えられない。それがつまらないと思ってしまっている。空白に全てを満たそうとしなくていい。何もない間を受け入れるには時間が必要だから。だからこそ音で時間を感じなくてはならない。何もない空間は空っぽじゃない。色々なものが満ちている。面白くしようと思わなくていい。ただそこに音があるのだから。それを自然に弾けば、あとはついてくる。もしかしたらそれを聴いた誰かは、つまらないと思うかも知れない。けれどそんなことは関係ない、のではない。それもそのまま受け入れればいい。色々な人がいろいろなことを言う。けれどそれに影響されて自分の根本までを変えてしまうことはない。それでもその人の言葉を尊厳を持って受け入れなければならない。こうして私や周りの人が色々なことを言うけれど、今、あなたはその全てを忘れていい。何も考えないで、ただ歌いなさい。
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2008年11月08日 (12:58)

谷川俊太郎の詩

谷川俊太郎の詩選集2を読了。詩集は順番に読まない主義だったのだけど、毎日すこしずつ、読みたくなった時だけという条件をつけて読んでみた。2の中で気に入ったのは『定義』、『色の息遣い』は言わずもがな、ふと琴線に触れたのは『水脈』であった。以下、一部抜粋。

----------------------------------
慰めの言葉ひとつ浮かんでこないからこそ
心はもっとも深い水脈へと流れ込み
いつか見知らぬ野に開く花の色に染まって
大気のぬくもりと溶けあうだろう
----------------------------------

私は、これだけ饒舌なわりに、 他者の真剣さに言葉が思い浮かばないことがあって、それがすごい冷たい人間な気がして、悔しくて、何日も考えて、今さらな時に返事をするという、欠点というか難点があったのだが、この詩によってそれが少しいい意味で瓦解できた気がしたのだった。

他にも『かがやく ものさし』など、平仮名だけの詩も秀逸だ。スーパーマンその他大勢のラスト一行だけシュールな感じも好き。さて3も読みたくなった時だけ、ちょっとずつ読み進めてみよう。氏を目の当たりにすることになる15日までまだ日はあるから。

『手紙』をAmazonにて注文した。
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2008年11月08日 (00:12)

I can change

人は変われるか。変わるとはどういうことか考えてた。変わるとは気持ちいいことなのか。なにか見えなかったものが、突然、見えた気がして、一瞬、躁状態になるあの熱い情熱的な感覚。けれどすぐに夢のように去ってしまう。その瞬間、変わったのだと信じたけど、やはり元に戻ってしまったという諦念。

でもそうだろうか。本当に変わったのならば、静かに冷たく、この椅子に沈黙したまま座っていたとしても、それは常に変わっていなくてはならないのでは?しかしどんなに変わろうとも、それが自分であるということには変わらない。

自分とは何か。自分というものを正確に定義はできない。それは不確定な多面体である。変わるというのは、サイコロの出る目を変えるようなものだ。どんなに違う目が出ようとも、サイコロであることには変わらない。

つまり私にも色々な面があるということだ。ラーメン、つけめん、ぼくイケメン。変わるとは、それに気が付くということだ。そのために私は今、静かに椅子に座り、沈黙して、探りつつ、こうして言葉のサイコロを振っている。

2008年11月07日 (14:51)

音と光の電飾

それらは空から雨のように落ちてくる。それらの目的は消えるためであり、消えることで次なる消えるものたちの場を空けることである。それらはふたつの要素から成る正方形で、更にそれらは四つになりひとつのより大きな正方形になっている。隣り合う四つがひとつの要素になると、この世界から消える。その時、まわりにある似た要素もしがみついて消えようとするため、それらはまったくの純粋な四つであることはかなわない。またふたつではどう頑張っても消えることはなく、永遠の愛を誓った恋人のように存在し続けようとあがいている様は、永遠の停止にも似ている。このようにひとつとひとつは似たもの同士なら相性がよい。しかしひとつとひとつが別の要素である場合でも、消えることはなく残り続ける。あるひとつの目的は、あるひとつと出会うことであり、そうしてふたつになっても消えず、そのふたつがもうひとつのふたつに出会わなくてはならない。どういう意志でその要素たちが隣り合うかは、恣意的にも思えるほどの意志決定の速度に依存する。すなわち私の光、私の音、私の電飾。その指と目の境界を飛び越えた先に見えるもうひとつの私さえ垣間見えてきたときに、私と私が隣り合い、数多の私たちが重なり合うとき、私たちは消える。その意味は、おそらく次なる消える私たちの場を空けることである。そのとき私たちは立方体になっている。

2008年11月07日 (12:47)

一行詩

いるかどうかもわからない神を信じるより目の前にいる人間を信じる

世界は希望に満ちあふれていることに気がついていることを忘れない

力強い意志は誰も破壊することはできない自分でさえも

死ぬ可能性に怯えるのは生きる確率の中でつかむ喜びの素晴らしさを知るから

誰の所為でもない自分の所為ですらないただそうありたいと願う

太陽は私のためにあり世界は私のためにありあなたも私のためにいる

水の流れを無理矢理せきとめずにその流れを導くことを心得る

壁は壊しても飛び越えても迂回してもただ眺めていてもよい

花は枯れる人は枯れる言葉は枯れる世界は枯れるそうして印を刻み残る

時は流れない流れるのは私の意志と情熱とこの大地

生きるために死なない死ぬために生きない生きるために生きる
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2008年11月06日 (16:39)

世界によってみられた夢を定義するコラージュ

最近、内藤礼という人の紡ぐ言葉がなんとなく好きかもしれないと思い始めている。

過日、新日曜美術館の現代アートの紹介(そとのきは日本家屋の囲炉裏かなにかの上に、ひょろひょろと長い糸が垂れ下がり、それが人工的な熱源である囲炉裏からの対流と、自然の外からの風にゆらゆらと揺れるのをただ眺めるという作品であった)の時に名を知り、その数日後、茂木健一郎著『生きて死ぬ私』の後書きを読んで興味を持った。

生憎、同書は現在、妹に貸しており、一部を引用することはできない。内藤礼本人の著書もあるらしく、現在は絶版ではあるが、ちくま文庫からでていた『世界によってみられた夢』をオークションにてプレミア価格ではあるがなんとか落札。オールカラーのようで届くのが楽しみである。本業は彫刻家らしいが、文章にも独特の気韻を感じた。

本日は、谷川俊太郎の『定義』が届いた。とても自分が生まれる前に出版されたとは思えない、状態の良さに感動しつつもパラパラと拾い読む。この定義は詩選集にも何点か抜粋されていたが、それだけでは満足できず、すべてを読みたくなってしまったのだった。ネットで調べた情報によると、なんでもこの書の文章はすべて百科事典の引用からだけで構成されており、谷川氏本人の言葉は一言もないというから驚きだ。それでも谷川氏らしさがうかがえるのは、その世界(この場合は百科事典の文章)の切り取り方からくるのだろうことは間違いない。

いやはやコーネルにしてもそうだが、コラージュというものの可能性は素晴らしい。単なる前衛的な表現にとどまらず、そして絵や物だけでなく、文章までコラージュできてしまうとは。しかしその手段をあやまってしまえば、単なるパクリやコピーになってしまう危険性も孕んでいる。けれど世界そのものすらコラージュできてしまい、それによって私という存在のオリジナリティが発露するという可能性の中に、ときには溺れるように自由に漂ってみたいものである。何でもかんでも情報が飛び交っている、このインターネットでそれをするのは難しそうだが、感覚を研ぎ澄まし、自分なりの世界を切り取って行きたい。そう意識するだけで、なんだか思考が浄化されたような新鮮な昂奮を覚える。

2008年11月05日 (13:33)

PSP2000

ひさびさに起動してみた。システムソフトウェアをバージョンを5.01にバージョンアップ。新たに搭載されたフルサイズキーボードはなかなか便利だ。あとPlayStation®Storeが搭載されて、PS3のトロステーションがPSPでも観られるようになったのが何より嬉しい。

所有ソフト。『MAPLUS ポータブルナビ2』と『みんなの地図3』の地図系メイン。『モンスターハンターポータブル2nd G』は今一肌に合わず。『ニッポンのあそこで』はちょこちょこやっている。

昨日は新しいゲームが欲しくなったのでベスト版の『音と光の電飾パズルゲームル ミネスⅡ』を買ってきた。四つのブロックを四角にして消すテトリスのようなゲーム。宛延とやってしまう中毒性がある。スキンも沢山あって楽しい。懐かしいKEN ISHIIなども楽曲提供している。
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2008年11月04日 (13:26)

全体と部分

わりと昔に買った、東京大学出版会『知の論理』をパラパラと拾い読みしている。そのなかで、ゲシュタルトとは「全体」という意味との記述があった。先日、書いたゲシュタルト崩壊とは全体が崩壊してしまう感覚だったから、全て和訳すると全体崩壊となるのだろうか。

他にも部分と全体についての興味深い記述があった。ムカデは自分の足の動きを意識してしまった途端、歩けなくなってしまうという有名な喩えがあるが、もしかしたらこれは人間にもあてはまるのかもしれない。けれど私は自分の心臓の動きを意識して止めることはできないし、ましてや死ぬこともない。

そして歩いていることは意識しても、そう簡単に躓くことはない。けれど不意に何かを意識すると、今までやっていた単調な作業をミスしてしまうことはある。私の身体は思っている以上に、自律系に支配されているのかも知れない。もしかしたらこうして文章を書いているこの意識さえも。

2008年11月03日 (01:53)

(続々続)ひとつのもの

ひとつのものは
とても小さい
見えない
届かない
聞こえない
感じない
沈黙する
永遠に
ひとつのものは
死んでいく
静かに
ひっそりと
気づかれずに
ひとつのものは
泣いている
夢の中で
そっと
目を閉じる
眠る
息をする
意識が
消える
ひとつのものは
何も
限定しない
自由になる
言葉も
意識も
世界も
何も
邪魔できない
ひとつのものは
全てになる
永遠になる
なくなる

2008年11月03日 (00:01)

五行詩

不確かさがサイレンを鳴らし 確かさを囲繞する 犯人を確保

逮捕した犯人はいつも誤認逮捕で無罪放免

そうして生き生きと解き放たれた確かさが また不確かになるとき

みるみる顔が変貌して行く 時はすでに遅くて

けれど諦めている暇さえ 人生にはないのです

2008年11月02日 (09:25)

(続々)ひとつのもの

ひとつのものは、決して手にすることができない。
ひとつのものは、世界そのものでもあるから。
光り輝いて、とても大切なものに見えてくる。
だが時として、ひとつのものは、永遠に近づけない闇だ。
心と脳が、決して繋がらないように。
言葉と世界が、決して重ならないように。
私とあなたが、真実に出会わないように。
月と地球が、ぶつからないように。
無口な太陽がぶっきらぼうに、朝と夜をつくる。
去年よりも一歳年老いた冬がやってくる。
昨日、今日、明日、その日々さえ、
夥しい「今」という、ひとつのものである。
「今」「今」「今」

「花」「花」「花」
の差異とは。
今が咲く、花が過ぎる、今が枯れる、花が去る、今が散る、花がやって来る。
言葉はときに現実を超える。
ひとつのものは、ふたつになり、みっつになる。
ひとつのものは、無限になる、心の中だけで。
無限になる、心の中だけで、ひとつのものは。
心の中だけで、ひとつのものは、無限になる。
目を開く、見えた光景を限定する、私。
無限の可能性を、一点へと収斂するのが言葉だ。
その時
ひとつのものは、ひとつのものは、ひとつのものは…
言葉にした途端、消えて行ってしまう。
言葉が咲く、言葉が過ぎる、言葉が枯れる、言葉が去る、言葉が散る、言葉がやって来る。
言葉はときに言葉を超える。

2008年11月01日 (11:05)

(続)ひとつのもの

ひとつのものには、色々な形、色々な意味がある。
同じ形をした人間にも、色々な人間がいるように。
同じ形をした花にも、色々な花があることを忘れがちだ。
一見、同じ形をしているだけで、実は違う形なのに。
それを名づけることで、ひとつにしてしまう。
「花」という言葉はどうだろう。
「花」「花」「花」
この三つの花は違うのに「花」という言葉で「花」同士の差異がなくなる。
でももしかしたらこの言葉の「花」にさえも、違いがあるのかも知れない。
同じ「花」でも、文脈の中で、様々な「花」を咲かせることがあるから。
その相互作用の中で、ひとつのものは様々な側面を見せる。
ひとつのものはひとつのものではもはやいられない。
問題は孤独ではない。問題は孤独でいられないことなのだ。
否応なく、迫ってくる外界は、ときとして疎ましい。
ならばその外界すら、自らの内に取り込み、内界としてしまおう。
逆に、この私すら、外界の一部になってしまおう。
そう想った途端、何も分からなくなくなってしまう。
「私」とはなんなのか。「私」とは誰なのか。
一体全体、どうすればこの「私」を、定義できようか。
いまや「花」は「花」のまま枯れているようにさえも見えてくる。
いまや「私」は「私」のまま、別の誰かのようにさえも思えてくる。
もう名づけることですら、それを手にすることはできない。
そもそも手にする必要すらないのかも知れない。
それらは常にそこにただありつづけるのだから。
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