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2008年10月31日 (10:32)

ひとつのもの

ひとつのものには、ひとつの形、ひとつの意味しかない。
これはものを名づけてしまうことで陥ってしまう誤謬だ。
ひとつのものは、本来、たくさんの形をしていて、たくさんの意味が眠っている。
ひとつのものは筒状になっていて、全てが通過する可能性がある。
そして何かが通過することで、まったく別のものにさえなりえる。
私がこの世界に存在する前と、おそらく私が死んでいなくなった後の世界。
それは一見すると、何も変わらないけれど、
私がこの世界に存在したという事実は、決して消えることはない。
だがそれも私がいない世界と名づけてしまった途端、同じものになってしまう。
名づけることは、空間に、時間に、トイレットペーパーの芯に
蓋をすることだ。底ができて、天井ができて、
閉じ込められたひとつのものがもがいている。
言葉は今こそそれを解放しなくてはならないのに、
相変わらず、多くのものを名づけている。
愛とか、歌とか、幸せとか、その意味を本当に知っているものなどいないのに。
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2008年10月30日 (03:05)

ものすごい悪い人格が自分の中に現れることがある。
あらゆることに対して怒り、毒を吐いている。
そしてそれを愉しんでいる自分がいる。
それはとても素直な感情だから、多分、本当は悪気はない。
ただ素直な気持ちを、化粧などせずに素顔を見てもらいたい。
そしてそれを好きといってもらいたい。だけど無理だ。
それは自分を否定して壊してしまいそうだから。
それは人を傷つけてしまいそうだから。
それはとても言えないようなこと、それはとても書けないようなこと。
それをそっと誰の目にも触れないけれど、
もしかしたら自分だとわからないままに、誰かの目に留まるような、
そんな場所をこっそりとつくって、吐き出したいと思う。
だけどそんな場所をつくった時にはすでに、
もうそんなことは書きたくもなくなっている。
何を書きたかったのかさえも忘れている。

2008年10月29日 (10:03)

ふと自分が

ふと自分を見つけた。道を歩いている時に見つけた。
自分を見つけたというよりは、自分の椅子を見つけたといった方がいいかも知れない。
そこに座ることができた。歩きながらにして座ることができた。
そして考えることができた。それはとても素晴らしいことのような気がした。
もうどこにいても、自分がいる。自分が座っている椅子がある。
そこでいつものように考えることができる。どんな空想でもできる。
至福の時。どこにでも街中にも、部屋があるような感覚。
落ち着く部屋が、落ち着く世界に広がる喜び。


ふと自分が未来にいると思う。今の自分が未来。今の世界は過去。
その視点で現在を過去化して俯瞰すること。
過去を思いだし、あの頃、ああしておけばでもできなかった
その羞恥心から回避した行動を過去化した視点から見ること
そのことで現在という生々しい感覚を麻痺させて可能にすること。
決して、過去を後悔するわけではない。
現在が過去になる。世界が鮮明になる。達観する自我。

2008年10月28日 (00:58)

廃墟

もはやここは満ちてしまった。どうしようもなく人々が溢れてしまった。くずおれた小さな人々が浮かび上がり欣喜雀躍している、愚かしく、儚げに、意地らしく。もはや言葉は朽ちてしまった、あの枯れた野原のように、あの老人のように。どんなに叫ぼうとも、心には達しなかった言葉たちよ。ここはもう誰も居なくなってしまった廃墟だから。いつまでも沈黙していてくれ、いつまでも光り輝きながら。私はそこにある木もれ日に浴し、朽ちて行くのもまたよかろう。何も想わないでおくれ、言葉よ。私の虚無を満たさないでおくれ、言葉よ。もはやここは満ちてしまった。どうしようもなく言葉が溢れてしまった。人々は吐き出しすぎた、無意味な言葉を。私は何も受け取らなかった、言葉も、心も。ここはもう誰も居なくなってしまった廃墟だから。私はここに住みつづけよう。私の小さな庭に、やがて誰かがくるかも知れない。来なくてもいい、ここは廃墟だから、あなたを哀しませてしまうだけで、幸せにはできそうにないから。

2008年10月27日 (22:05)

認識されない意識たち

目の前にあるものしか見えない
世界はつくられた枠ぐみに侵される
名づけられ 囲まれ 細かく分かれ
その小さなひとつが全てを手に入れる

心を心と名づけて信じる
私を私と名づけて信じる
空を空と名づけて信じる
だが意識は永遠に心には届かない
その鼓動を意識できないように
この足もまた勝手に歩きだす

景色が見えて 記憶になり 思い出になる
認識される以前にあった感覚を捨てる
私が生まれてきたこと
私が生まれる前の感覚を捨てること
それは他人の痛み もう何も感じない
私をそっと抱きしめれば それはもう知らない人

いくつもの壁を通り抜ける
私 私たち 全ての世界たち
その間にあるものを捨てる
私をそっと抱きしめるように
心をそっと手にとるように
空にそっと溶けこむように
認識されることでなくなってしまう

その全てを解放して 引き戻す
そこから新しいものが見えない
絶望と 何かが見えそうな希望
認識できない影のなくなった光
机上に転がる痛みの陰翳 涙の欠片 その全部
それをどこから見ても
眺める以前の意識はもうここにはない
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2008年10月27日 (13:12)

五行詩

この不確かな私という存在の上には

次の行に何を書くのかさえ不確かで

くすくす あははは はっはっはっは

しかし狂気さえも計画的なこのザマはなんだ

不確かさがサイレンを鳴らし 確かさを囲繞する 犯人を確保

2008年10月26日 (22:54)

五行詩

汚い心が言葉に甘え 汚い言葉が心を試す

それは言葉の確かさ信じたかったから

それは心の確かさを信じたかったから

だけど確かな言葉も心もありはしない

この不確かな私という存在の上には

2008年10月26日 (20:16)

共感覚

ぼくは共感覚があるみたいだ。
覚醒時にはないのだが、
ゆめみうつつの状態の時、現れるようだ。
一種の意識の変性状態。
感覚が別の器官の感覚を共有する。

音楽を聴きながら眠ると、それが起こりやすいようだ。
今、ショパンの夜想曲を聴きながら、うたた寝していたら見えた。

ショパンはブルーとグリーンが混ざった色だった。
どこかの川沿いに面した、ベランダに出る。
空は夕暮れ時、しかしブルーモーメントのように青い。
目の前を名も知らない鳥が飛び、横切った刹那。

空が、全てが青く染まった。

その鳥までの距離の本来、透明なはずの空さえ。
色眼鏡を通したように青く、
そして眩しいほどの緑がその後から追ってきた。

そのふたつの色が混ざった時、
今まで見たこともないような美しい景色に見えた。

2008年10月26日 (01:58)

下手の考え休むに似たり

最近、漠然としたことで悩んでます。
どういうものかというと…

「手にした途端に、なくなってしまうものを、手にするにはどうすればいいか?」

ということです。よくわからなくてすみません。
谷川俊太郎の詩からだと、海の水を手で掬った途端、塩水になってしまう感覚です。

答えはいくつか思い浮かびました。
1:名づけることで、手にしているつもりになる。(愛は死んでないと信じる)
2:そのなくなってしまったものでいいから手にする。(詩人スタイル)
3:手にしないでもいいじゃないか、とあきらめる。(人生あきらめが肝心)
4:むしろ手にしたくない、と捨てようと努める。(無駄を省いたエコロジー)
5:もう一度、距離をおいて見つめ直す。(まあ頭冷やそう)
6:箱や言葉、記憶の中に封印することで保存する。(コーネルの箱庭的)
7:掌の中に小さな海をつくる。(小天地)
8:飲み干す。(世界さえも我が内にあり)
9:いつまでも見つめる。(いつか幻覚が見えるかも知れない)
0:考え中。(うーん…)

どうでもいいけど、「下手な」じゃなくて「下手の」だったんですね。
さてコーネルの写真集でも見ながら、音楽を聴いて寝ようと思います。

2008年10月25日 (20:53)

記号論にひそむ違和感

母の友達が子供を連れて遊びに来ている。
隣の部屋で、子供の声が聞こえた。

子供「なんで猫が二匹いるの?」
父「犬だよ」

なるほど子供にとってはその動物は確かに猫だったのだ。
これは言葉の恣意性を表している。

つまりシニフィエ(存在≒動物)のシニフィアン(影≒言葉)が「犬」であろうと「猫」であろうと、本来、どちらでもよかったということだ。言葉は差異にすぎない。他のものと区別して、全体としてのシーニュの自己同一性が保たれればよい。

というのが記号論であるが、でもこれには漠然とした違和感がともなう。恣意的といえど、決められた途端に、そこには圧倒的な必然性がともなうことだ。

私の違和感は次のことである。「犬」をここでは一般的に「A」としよう。

<AをAと名づけなければ、AはAではないのか?>

つまり、

AをAと{思わなければ・決めつけなければ}、AはAではないということだろうか?

具体的な言葉に置き換えると…

愛を愛と{思わなければ・決めつけなければ}、愛は愛ではないということだろうか?

これは大きな問題のように思われる。

なぜならこの文体を倒置すると、

愛は愛ではないから、愛を愛と{思わなければ・決めつけなければ}ならないのか?

となるからである。

私は私ではないから、私を私と{思わなければ・決めつけなければ}ならないのか?

では私を私と名づける以前は、AをAと名づける以前は、

それは一体なんだったのだろうか?

名づけた途端に、遠くにあったものがあっという間に手元に届く、

決して手に入らない宇宙の果てにある何かさえも。

遠くにあった感情さえもが、言葉により眼前に現れ、傷つくこともある。

その圧倒的な接着力に、もともと数十光年の「間」があったことすら忘れる。

その間にこそ、沢山の大切なものがあったような気がするのに。

今もまさにあるような気がする。

そこは闇だ。

言葉が光だとしても、闇は残しておかなくてはならない。

そこに全てを隠せる。そこに全てが眠る。

しかしどうしても見たい。

そうして照らした途端に、闇は闇でなくなる。

私は言葉でもって、闇を闇のまま、光で照らそうとしている。

そう思えば、

目に入る、光の確かさが疎ましくて、部屋の灯りを消した。

この部屋は薄暗く、そして薄明るい。

2008年10月25日 (14:57)

クラシックをmp3化

長年ちまちまと買っていたCDが結構、増えてきたので以前mp3化したものの、やはり音質の違いからCD盤を手放すわけにもいかず、それでもクラシック以外はほぼ全てiTuneでmp3化してあったのだが、この度、クラシックもmp3化することにした。

といってもクラシック盤はそれほど持っていない。オーケストラよりもソロメインのヴァイオリンやピアノやチェロが好きだから、限定されるのだ。それでもバッハ・無伴奏ヴァイオリンなどは、演奏者によってかなりの傾向の違いがあり、そこら辺の違いを愉しむ意味でも、同じ曲目の盤を何枚か買ってしまう。

mp3化する理由はというと、私はなかなかクラシックの曲名を覚えることが出来ないので、とりあえずmp3でどの曲がどれだったかを覚える意味合いでも、インデックス的に使えると思ったからだ。音質にはそもそもはじめから期待はしていない。
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2008年10月24日 (18:13)

わからない

わからないことが唯一の希望としよう
明日はわからない だから生きて行ける
明日が もしわかってしまったら 夢はなくなり
生きて行く気力はなくなる
明日 死ぬことがわかっていたら
本当に今日を精一杯 生きようとなどするだろうか
もしかしたら死なないかも知れないと
思えばこそ生きることができるのだろう

それでもわかってしまっている今日を生きる
だからつらい 目の前にある 悩みや苦しみ
そこから逃げることができない 自分からも
自分がわからなくなるのは わからないでおきたいから
他人をわからないでいたいから
何もわからなければ
この今日さえ希望に輝きそうだから

でもわかっている 今そうして誤魔化していることを
隠すことができない わかってしまっていることを
こんなにも こんなにも こんなにも
わかってしまっていることを過去に捨てる
今はつねに白紙 からっぽだ
白紙なのは未来ではなく 今だ
未来は白紙でさえなく なにもないことだ
そして数多くのわかってしまったことを捨てた過去も
もう今ここにはない
この今にこうして無限にも近いような想いが浮かぶ
それもひとつの希望ではないか

希望はなにも見えない未来にあるでもなく
今にこそあるべきではないのか
未来よりも本当に見えないのはこの今なのだから
私はこうしていくつもの希望的な仮説を立てながら
実証していくだけの存在でもなく
この想いは通ってきた道からたった今
見出された道にすぎない
通った後に道があるのは錯覚で
これから通る先に道があるのも錯覚で
今のいま通っている道こそが道で
どんな方向にもいけるが
決して逃れることができないのがまた道だ

この逃れることができない道は
果たして私が望んだものか 否
私は何も望まなかったはずだ
それならなぜ希望などという言葉を口にする
絶望などという言葉をただ打ち消したいが為か
違う 私はただ歌いたいだけだ
言葉で空を超えることはできないけれど
わからない この白紙の中に 想いが溢れるから
「                」

ただそれを記述している 眺めている
とても小さな部屋にいる
音楽が流れる 息をする
蛍光灯の光 キーボードの音
椅子が小さく動き 誰かが歌う
騒々しいと思い あたたかいと感じる
そしてこの全ての存在がひとつであることに気づく
私さえもその一部に過ぎず
すべての存在は風の通り道にすぎない

私が悩みを携えているのではない
悩みが私を携えているのである ありえない
私が世界を所有しているのではない
かといって世界が私を所有しているのでもない
そもそもはじめから誰も何も持っていない
ただそこに疑いようのない幻があるだけだ

それなのに捨てたくても捨てられないものが多すぎる
言葉はいたずらに文字数を増やし
饒舌に情熱さえ無化してしまいそうで
今と寸分違わないほど生々しい記憶が
土の中でうごめくみみずのようだ
そして決して捨てることの出来ない今という白紙
からっぽな中に浮かぶ心そのものさえ疎ましい

何もなくてよい 何もない方がよい
わからない永遠の闇として沈黙してほしい
今よ 騒ぐな 過去よ 甦るな 未来よ 訪れるな
何もなくてよい 何もない方がよい
私はそれでこそ 新しい何かをつくろう
そういう希望を抱くために 消え去りなさい
言葉も 世界も あなたも 私も

そう想い 今 全てがなくなったわけだ
けれど思いつくのはもとにいた世界だけだ
そうしてそれを希望し また新しく作り直したとしよう
その中で私は また消えることを望むのだろう
望まなくてもよいのだ いつか消える
全てが消えるのだから 望むまでもない
そもそも消えるとは 何か
残り続ける残滓
過去は果たして消えたのか
そこに私の意志があったと信じるのか
今ここで何を想うか 愛か 真実か
そんなものは始めからなかったのか
私もはじめからいなかったのか
ではなぜいるなどと信じたのか
あなたがいたからか
あなたさえはじめからいなかったのか
ではなぜいるなどと信じたのか
ただ信じたかったからか
果たして私は信じたのか
何を信じたのか
そこにいること
いないこと
何が
誰が
「 」

2008年10月24日 (00:33)

ひとつのことばかりに夢中になり、盲目的だった。
  

       それは宛延とパソコンの中のフォルダを掘り続けるような無意味な作業にも思えた。


ふたつの対立する考え方ばかりで独りよがりだった。

     対立するのは闇であり虚無であった。そしてそれを打ち消す希望や愛を無理矢理、つくり、名づけたのだ。そしてそれすら忘れようとした。


みっつの考え方の関係性の中に身を委ねることができるようになった。


気がする。段階。

    この意識に斜めから対立するクオリア。


         私すらいなくても、よい、意識。意識すらない、でも、よい。


むしろないと考えなければ、その間に消えていったものたちが蘇生しない。

           それは虚無とは違う。なんだかわけのわからないもうひとつは強大で、破壊しようとしているのか、つくろうとしているのかさえわからない。


              その全てを包み込むように、もうひとつがみっつめだ。選んだ本、開いたページに、いつも自分がいるような錯覚。答えがある。


このみっつがまるで机の上のオブジェになどなるのだろうか?

やっと世界がわかってきたけど、あまりにも手あかだらけで嫌気がする。そしてそれを新鮮に感じる自分がいよいよ新しい。

   新しい後から生まれたものが、私の内部に満ちて行く        それによって朽ちてゆく私 ぼく おれ 誰


   けれどぼくが思うよりも、世界はきっと素晴らしいから。

2008年10月23日 (05:15)

自由とは

そういえば今日、ふと思ったこと。自由には三種類ある気がした。

なにかを持つことで自由になること
なにも持たないことで自由になること
なにもないものを持つことで自由になること

資本主義だとか社会主義だとか、そういう責任だとかはおいといて、最後は間違いなく詩人だと思ったのです。ただこの全ての自由は哀しきかな「所有」という概念に囚われてしまっているという意味では自由ではないわけで、だからといって全てをダダイズムで壊したいわけでもない。なぜなら壊したものは、壊れたものとして残り、決してなくなりはしないのだから。

所有を所有しないこと。それはどういう意味か。つまり獲得して自分のものとするのではなく、あるがままのその関係のなかでの広がりを愉しむのが、本来の自由なのかも知れない。それはしがらみでもあるけど…と、こうして反復して収斂してゆくことで意味を発露させようとする自分自身の傾向からも自由になりたいものである。振り子のように、最後は停止する。自由とは、それは自然の成り行きだったのではなく、自らの意志で停止したのだと思いこむことである、ようにも思いこむことができる。

否。思いこんでしまうことこそ不自由ではないか!ならば思いこむまい。決して。私が私である、と思いこむことなかれ。自我があり、脳があって、その論理構造からすると、と待てよ、その論理構造すら思いこみであるようだ。いや、思いこみであるようだなどと思いこむことなかれ…。いやはや自由という考え方がそもそも思いこみなのであろうか。自由などはない、そうすれば不自由もない。そうして不自由が消えてなくなったのを見計らって、自由だけがまたひょいと顔を出してくれればいいものだ。そのときはどうか手ぶらで来てほしい。

2008年10月22日 (02:23)

認識されない意識との隔たり

あげつらう。他者の言葉。本来、情熱であった筈の没落した自己主張。上か下かで判断する。下にいることが負けている気がする。負けているという感覚。いやむしろ「下にいる」とか「上にいる」とかいう感覚自体が、すでに既存の世界を構成している論理的な基盤に侵されている。上へ上へ行こうとする。頂上を目指して。ただ最高のひとつの高見には決して達することができない絶望。

そして全てを囲い、細分化する。小さなものに、原子たち、素粒子たち。その小さな或ひとつで全てを支配しようとする。名づけること。そこに意識さえも宿らせようとすること。クオリア。「私」ある最少の単位。意識できない鼓動に生かされている事実を忘れて、意識できない足は勝手気ままに歩き出す。

赤い花を見る。赤という記憶、赤という思い出。その差異。赤が赤と認識される前に、あった感覚を捨てる。私が生まれてきたこと。生まれる前の感覚を捨てること。それは他人の痛み。何も感じない。思い出と記憶の彼方へ.zip。展開される美しさという結果.txt

われわれ、ぼくら、わたしたちという共同幻想。三次元空間に遍在する「私」たち。上か下かも関係なく、同じ、違い。飛躍する量子テレポーテーション。いくつもの壁を通り抜けて、私→私たち→全ての世界。生まれるエピゴーネンたち。その間にあったものを捨てる。捨てないで、引き戻す。関係性。そこから新しい論理が、まるで生まれない絶望と、何かが生まれそうな予感という希望。机の上の赤いリンゴが転がる、痛み、涙、どこからみても、あなたもわたしも、曖昧に、いられないもどかしさを、眺める以前の意識はもうここにはない。


アート&テクノロジーの過去と未来 ATAK@ICC
高橋悠治+茂木健一郎:公開トーク『他者の痛みを感じられるか』

を観た後、今日届いた

Cornelius Sensuous/Sensurround

を聴きながら。

2008年10月21日 (14:20)

二羽の鳥

二羽の鳥がいた。鳥にはそれぞれ七枚の羽根があった。ひとつは七色の羽根を持ち、もうひとつは黒のみだった。どちらの鳥も十年に一枚ずつ羽根が抜け落ちた。七色の鳥は、羽根の一枚一枚に名をつけていた。赤には情熱を、黄色には幸福を、青には秘めたる想いを…。だから一枚が抜け落ちるたびに絶望した。情熱が失われたことを、倖せを見失ったことを、愛した誰かを忘れたことを…。一方、黒い鳥はみな同じ色だったから、一枚が抜け落ちたとてどうということはなかった。しかし、ある日、ついにどちらの鳥も、最後の一枚が抜け落ちる時が来た。そのとき…(未完)

2008年10月20日 (22:49)

自我という鏡

自我についての考察。脳がミラーニューロンによって、コピーされる共感作用は、何も鏡や他者に対してだけではないのではなかろうかと考えた。

そう、つまり自分自身をもコピーしている感覚。自我もまた自我を複製し続けているのではなかろうか。その時間の中でこそ意識が生まれることからも明らかだろう。停止している私に意識は宿りえない。自我内に於いても、主と客の間にミラー的な相互作用が発生していると考えると、相互作用とは、つまり複製に近い作用であって、この「私 私 私 私」の関係は、縦ではなく横である。私は私がいるということを俯瞰しているのではない。私は私がいるということをもうひとつの自我という鏡を通してみているのだ。

その関係によってのみ意識がクオリアを伴うのであって、「私」というひとつが私なのではなく「私 私 私 私…」という全体がひとつの私であると考えた方がよいだろう。これはニューロンひとつでは脳として成立しない、ニューロンが結びつくことによって、また発火することで成立しているのと相似している。

文字もまたひとつでは成り立たないのと同じように、その連なりによって意味が発露するではないか。右脳と左脳が別れた意味もまた、鏡の必要性があったからであり、それが更に細切れに細胞分裂を繰り返した意味もまたコピーであり、鏡の世界を作り出すことでの意識の創造であったのかも知れない。

2008年10月20日 (22:49)

詩について

詩について考えていた。ふと思ったのが「詩とはエニグマ(暗号)的な隠蔽である」ということだった。「書いたこと」と「書かなかったこと」が等価値、というより寧ろ書かなかったことの大切さを際立たせる為に書くことすらあるのではないか。

決して愛を愛と名づけないことの意味。海を海と名づけないことの意味。私を私と名づけないことの意味。ふと暗い部屋の中、私は自らの掌を顔に充ててみた。私は私の「手」という名前を顔に充てているだけではない。私はまさに本来この名づけることのできない、触手である何かを顔に充てているのである。

そう考えた途端。その掌はまるで他人のように、違和感を伴った。熱い!熱い!ここで重要なことは、この意識の変性が、こうした論理的な思考回路のみによって齎されたことである。この時まさに論理と感性とは密接に繋がっているのだと思い知らされるのであった。

2008年10月20日 (22:48)

Respect

尊敬する人が、今まさにこの瞬間も、世界のどこかにいて、確かに息をして生きているという事実。あなたと同時代に生まれることができたことが、奇跡に近く、ありがたく思えてきて、なんともいえない尊厳を覚え、それが自己の内にあることを、また誇りに思えるような、そんな感謝の念を抱けるような人物がひとり、またひとりと増えている幸福感だけで、未来に進める気がする。

2008年10月20日 (11:37)

こんな夢を見た

ものすごい広い家に引っ越した。セグウェイを買おうと思ったくらいの。デパートの中のように広くて、その一角が私の部屋だった。将来的にはそこを店にしてもいいらしい。しかしデパートなので、お客が通り過ぎて部屋の中でたむろしている。某有名人が座って、撮影が始まっていた。まあなんか楽しそうだからいいかと思う。そもそも自分の部屋でそんなことが行われているのはすごいなと思ったからだ。リビングダイニングの方はわりとプライバシーが守られていたのでそちらに移動。部屋の幅は30メートル、奥行きは百メートルくらいあった。思いっきり走った。疲れた。これだけ広ければこの一角を家具などで仕切、ぼくの部屋にしてもらおうと親に相談しようと思った。今は六畳だったから八畳以上は欲しい。すぐ隣接する部屋は他人の家で、部屋を挟んで路地裏のようになっていた。なんだかこういうの雰囲気は好きだ。ほらこっちはこんな風になっているよと親に言って、嬉々として路地を歩いて隣の部屋を覗くと、小さな赤子が寝ていた。かわいいなと思った。

2008年10月19日 (13:49)

こんな夢を見た

もうほとんど忘れてしまった夢の断片。

妹に花束を押しつけられた、ぼくはなぜか正装している。赤い薔薇と薄黄色の小さな花束をさし出されるも厭がる。でも小さな方ならいいかも知れないと考え直し、それを内緒でそっと持って、薄暗い長い廊下を歩く。そもそもそれをたずさえなければ歩くことすらできない気がしたから。

ぼくは誰かを捜しているようだった。幾人かの人の顔を見るが、これといった人がいない。薄暗くてはっきりとは見えないが顔だけは明るい。向こうの方ではひとりの人に沢山の人々が群がっている。ぼくはただ佇んでいた。でも誰もぼくに気づかない。

電車に乗っていた。電車を運転していた。レールの上を走る。といっても退屈なものではなく、どこに延びているかもわからない線路に気持ちが昂揚する。

明るい広い部屋にいた気がする。そこはとてもやすらいで、部屋があった…。そこに誰かがいた。とても心地良い……。でもよく思い出せない…。確かにあった感覚が、脳の中で眠っている。

そうか、ぼくが目覚め起きてしまうと、夢は逆に眠ってしまうんだ。

2008年10月18日 (22:59)

新しいクオリア

自転車で帰途、ふと思ったこと。やや神秘体験的なクオリアを獲得。

私は存在として今という次元に停止している。そしてその停止した存在をもって、すべてを表現しようと欲している。しかし何も湧いてこない。一切がここから湧いてこないにもかかわらず私は存在している。なんなのだこの全部が一瞬にある感覚は!大人しい静けさの中に、ざわざわとした無がゆらぐ。感情もまた宇宙と同じように対称性の自覚的な破れから生まれているのだろうか?

2008年10月18日 (22:57)

詩集の読み方

谷川俊太郎をちょっと読んでます。詩集はなぜだか最初から順番に読むということがしにくい。なんだか機械的に文字という情報を摂取する作業になってしまいそうで、作者に失礼な気がしてきてしまうからだ。なので偶然、開いたページに出会い、少しでも受け止められそうな予感のしたときにだけ、読むことにしている。今日開いたページには釘付けであった。

unko.jpg

※画像は谷川俊太郎「うんこ」より抜粋
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2008年10月18日 (13:48)

ヴァイオリン

ヴァイオリンを聴くと聴いているその音があまりにも美しくて音を聴いているという
感覚を忘れてしまい何も聴えていないような気さえしてくる
その音はまるで風景のよう雨のよう風のよう川を流れる小舟が見えてくる
その腕の交錯する動きのすべてがヴァイオリンに命を与えて
あやしくつややかにひかりうごきだす子供となり走り出す
雨の日に涙するどこかの街角が陽光に消えて行く霧の中へとけこむ
たゆたう感覚のつぶがあてどなく震わせながら別のものになりとけこんでゆく
その波が頭の中に響いたときにまた音が聴えていたことを思い出したくないほどに
思い出が風景の中に走り出す子供たちの声がじりじりとあたたかい陽光のように確かにある

2008年10月18日 (00:42)

五行詩

言葉が変えるんじゃない 心だと知った

心ない言葉もまた いくつも壊したけれど

綺麗なだけの言葉と 綺麗なだけの心に

一体 何ができるっていうんだろう

汚い心が言葉に甘え 汚い言葉が心を試す

2008年10月18日 (00:29)

五行詩

私はただそれをぼんやりと眺めていた

どんな言葉も何者も変えないと知った

それでも心から想うことしかできなくて

時が過ぎてあるとき見えた 笑顔

言葉が変えるんじゃない 心だと知った

2008年10月17日 (11:07)

オリジナリティ再考

素晴らしい自然や作品に触れて、感銘を受けてクオリアがコピーされる。それは自然の風景を見て、山が壮大で川が美しいと書くようなもので、半ば自然主義にも近い。

たとえばその風景の情報を削ぎ落として行き、最後に残ったものが三角形だけだったとする。その三角形を見て、そこから得たインスピレーションだけで文章を書く。するとその文章の中には三角形に関する記述が全くないにもかかわらず、それを読んだ人はなぜだか三角形の感覚質を得てしまうということがあったら面白い。

そしてついには三角形すらなく、真っ白な紙からインスピレーションを受けたとする。その真っ白な紙に文字が踊る。そこには多分、書いている本人の自我が現れる。読んでいる人にさえも、書いた人間の心象風景が手に取るように見えるような。おそらくそれがオリジナリティというものだろう。

それは全くの無からの創造ではない。自分なりのフィルターを磨いて透明に近づくほど、全てがやってきてしまから。まずそれらを削ぎ落とすという過程がある。ときとしてそれは森林を伐採するにも近いほど無惨だ。徹底的な破壊。しかし何もなくなりはしない!その残骸の、その欠片の、すべてがあなたであり私である。

2008年10月16日 (14:25)

五行詩

でも目を開いた途端 その全ては消えた

だから今度は 目を開いたまま 目を閉じた

すると文字は目の前でバラバラになって

この世界は目の前で崩れていってしまった

私はただそれをぼんやりと眺めていた

2008年10月16日 (14:12)

ターニングポイント

茂木健一郎『生きて死ぬ私』と『脳科学講義』を読了。

読後感が最高。思考の枠組みが変革するほどの衝撃を受けた。私のひとつのターニングポイントになりそうな予感。なによりクオリア(感覚質)という概念を明確に意識して自覚できたのが大きな収穫だった。この確かな世界乃至は自分という自我。それを意識している自分がいる謎を「メタ認知的ホムンクルス」という切り口で語られていたのが興味深い。主観と客観という幻想、そもそもそれは脳の中ではひとつに繋がっているからこそ、「主客非分離」な意識が生まれるということを理路整然と語っていた。あくまで理屈だけで神までをも創造してしまいそうな博覧強記さが小気味好い。

ひとつ気がついたことがある。例えば私たちは目の前の光景を見ることで、それを存在すると意識し理解できるわけだが、その存在する客体すら自我の内部で生成された現象の一部であると考えると、現実と想像の世界の境界すら曖昧になってしまうということだ。つまり部屋の外の世界を私はいま想像することができて、それが確かに存在するという実感を得ることすらできる。これを宇宙の果てまで、適用した時、まるで目を開けたまま、目を閉じているような闇がたゆたうだろう。目の前の「この文字」そのすぐまわりの文字にさえそれはあって、そのなんともいえないぼんやりとした存在感。そういう感覚が自我までに迫るとき、私はとてもこわくなる。そのぼんやりとしか意識できていないという、ことすら意識できている明確な自分に気づいて。

2008年10月16日 (10:37)

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無駄な部分を省いて、全体的にやや軽量化しました。
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