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2007年05月31日 (22:16)

空っぽの私について

MUSICA創刊号「すべてを語った宇多田ヒカル」を読んだ。

鹿野氏との対談である。約4年半前の同氏との対談は以下。

http://www.toshiba-emi.co.jp/hikki/gallery/interview2002/p00.htm

「自我」についての言及が気になったので、以下、考察を交えて書いてみる。まるで子供の頃のように、自分というものがなんだかわからない感覚。極端にいうと自我が形成されていない状態が大人になっても継続している。

そこには「私」が入っていない「空っぽの私」がいるだけだ。けれど別段、そこに何かを満たそうだなんて考えなくてもいいじゃんという無気力に近いというよりは、ありのままを受け入れる方向が見える。空に、宇宙に、何かを満たそうだなんて考えないように。

私という自我に気づくことで、発見(or創造?)してしまった孤独。しかしその私さえも私から離れて行き、もう孤独を感じていた筈の私さえいなくなってしまった。まるで膨張していく宇宙のように、やがて空っぽになった心は、今度は逆に全てを吸収し繋がり始めようとする。

そこにいる私も、あそこにいる私も、遙か彼方にいるもうみえない私にさえも、遍在する私たちは、ついに空っぽの私と繋がり始めるのだ。「宇」宙に遍く存在する「多」くの私に「光」があたり、宇多田ヒカルというシステムが動き出す時、この世界に独立して遍在する私たちはその重力によって、力動し始める。そして驚くべきことにそこにはもう私の自我が宿っていないのである。



エドウィン・アーノルドという詩人の言葉を思いだした。

「何ものも求めない者は、すべてを得、自我を捨てると、宇宙が自我となる」
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2007年05月31日 (19:48)

五行詩

止まらないで 全力で その先を目指して

私からさえ 離れていく 私だから

孤独を感じる私さえ もういなくて

空っぽになった心は さみしくないよ

何も満たさなくたっていいんだ 空には

2007年05月31日 (11:34)

ミクシィ

妹に誘われて始めてみた。mixi日記は顔文字を使い、当たり障りのない日常描写のみである。それはそれで愉しい。一方、ここでは日常描写をなるべく排して、純粋に言葉・文章を磨く為の場にしている。そんな二面性を切り換えつつ融合している、まるでジキルとハイドのようなアイデンティティ。だがそのふたつの私の振幅から生まれる文章もまたあったりして、エクリチュールベクトルは活性化しているようだ。今、どちらにも共通することは、シンプルに読みやすさを重視しつつ、語間にある気韻を表現できるように努めることである。

http://mixi.jp/show_profile.pl?id=11702403
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2007年05月31日 (02:59)

五行詩

意味もなく 消えようとする

この願いよ どうか形になって

完璧じゃなくてもいいから

誰かと同じでもいいから

止まらないで 全力で その先を目指して

2007年05月30日 (00:13)

五行詩

私はいない と思う 誰かがいる

誰かが考えて 言葉にしてしまう

たくさんの誰かが 私になるかなしさに

雨はガラスを伝い 一滴のかなしい雫へ

意味もなく 消えようとする

2007年05月29日 (01:51)

詩について

深夜。暗い部屋で音楽を流す。ベッドに横たわり目をつぶると、妄想が音に合わせてまるでiTuneのビジュアライザのように、網膜にあやしくゆらめきはじめる。変幻自在に変わる形をみて、これが感覚というものなのだなと思う。感覚が織りなされて映像となる。写真を撮るようにそれをとどめようとして、言葉があふれる。これが詩だなと思う。思うに言葉は、私自身の内部から溢れるのではなく、伝わってきた思いや、伝えたい思いを抱く、対象があるからこそ、その関係性の中で力動する。だから色々な人の、写真や絵や映像や音楽や言葉から、それに添えるような詩をつくってみたい。

2007年05月29日 (00:56)

五行詩

そこには無が 佇んでいるだけだった

君も 光も  言葉も   世界も    も

部屋に 無がゆらぐ 感覚が イスに座る

瞳が みている 何かが 目をつぶる

私はいない と思う 誰かがいる

2007年05月29日 (00:43)

最小限の消費

消費する行為に拒否症状がある。コンビニに入っても何も欲しいと思わない。カップラーメンは食べないし、スナック菓子も食べないし、お酒も買ってまで飲まないし、パンもおにぎりも添加物が入ってそうでいやだし、飲料も缶やペットボトルのものはなるべく買いたくないし、健康物もなんとなく飽きてきたから。情報さえ消費している気になり、インターネットやテレビのクダラナイ情報にもうんざり気味だ。100均の安物なんて見てるだけで憂鬱になってくる。ユニクロの着もしない服なんて買いたくもない。部屋にある物さえもクズばかりのような気がしてきて、大量に捨てた。

だけど本当に欲しい物だけは買いたい。物欲がまったく無いわけではなく、むしろ良いものなら、美味しいものなら食べたいし、座り心地のよい家具や、高性能な家電が欲しいという気持ちもあるが、買う前から欠点を探したり、どうせもっといいのがすぐでるのだと考えると、購入に踏み切れない。消費しないと社会が動かない。それは解っているつもりだが、無用なものを買うことにはなぜだか幾ばくかの罪悪感を伴う。

最小限の物だけで、最小限のエネルギーを消費して、最小限の愛に包まれて、最小限の言葉を発して暮らしたい。それは今の世の中では、贅沢なことのなのかもしれない。欲しい物さえ何も買わず、徒歩と自転車で生活し、犬と家族に囲まれて、詩を紡ぐ毎日。そして進む方向を照らす最小限の小さな光。小さな20ワットの電球だっていい。それは夜空の星よりも明るいことだってある。大きくなるほど、遠くに、小さくなるから。大欲は無欲に似たりというのだろう。穿った見方をするなら、この大いなる世界は、もはや無に等しいということにもなるが…。

2007年05月28日 (12:15)

料理

料理は人の心だと思う。「この人に食べてもらいたい」っていう気持ちで作られた料理は、もう不味いとか美味しいとかいう次元を超えてる。「人が良い」と書いて「食」という文字ができたのもわかる気がする。近所にあるラーメン屋は店長がいると感動的に美味い。なんだか店長の「生命」を分けてもらっている感じさえするほどだ。映画などでも誰かが食べ物を食べて美味しいと泣いている、ある意味、あざといシーンに弱かったりする。枚挙すると、千と千尋の神隠しのおにぎりシーンとか、邦画だとリターナーのパスタシーンとか、世にも奇妙な物語の13番目の客等など。

最近、父が料理をはじめた。エビチリとか麻婆豆腐とか辛いものが多くて、過日、腸の調子が悪かったので「いらない」と言うと「あまり辛くしないで作ったよ」と言われた。そこまで私に食べてもらいたいという気持ちを込めて作ってくれたのかと心が動いたが、それでも結局、自分だけが食べたいから道楽で作っているだけなのだろうなぁと高を括り、「いらないよ」と言った。次の朝。冷蔵庫を覗くと私の分だけラップをして残してあった。私はそれを食べた。これからもずっと、父の作る料理は、このときと同じ気持ちで食べていけるような気がした。そんな今日、カルボナーラを作ってくれた。カルボナーラはあんまり好きじゃないのに、なぜだか美味かった。
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2007年05月25日 (22:56)

たこやきやこた

人生も たこ焼きみたい 丸くなる

takoyaki.jpg



人生ってたこ焼きみたいなもんだよね。

最初はいびつでもさ、適当に転がしてれば

そのうち丸くなっちゃうみたいな。

どれもこれも同じような形だし

まあよく見るとまだいびつなんだけど

美味しければいいじゃんみたいな。
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2007年05月25日 (12:39)

言葉とは? 粘土のようなもの…

言葉とは、伝わることを願うモノでもなく、思いを綴って満たされるモノでもなく、それはただの粘土遊びのように形を変えるモノにすぎない。大事なのは言葉を吐き出す、書きだしている、自分自身である。それは決して粘土では表現できない。だから言葉で自己を表現しようとするのは苦悩である。

あなたは粘土で完璧な自分を作ろうとしていませんか?だとしたらそんなことはやめた方がいいです。できなくて絶望するし、もしできたとしたら、あなた自身がただの粘土であることを証明するようなものだから。ではどうすればいいのでしょう?

粘土と私の差異。世界と私の差異。その架け橋となるはずの「思い」を言葉にすることの意味とは?私とはなんの関係もないはずの風景を見て、カメラのシャッターを押すときの手の届かないものを、手にしたような感覚。それを共有する喜び、伝わることで、力動しはじめる関係性。そしてそれを壊すヨロコビ。沸き上がる感情で粘土を殴って、異形となりはてたカタマリ。それを「愛」とでもなづけるのですか?

私はここにいて、あなたはそこにいる。その間にあるのは、手垢まみれになった粘土のカタマリだけだ。そしてその粘土のカタマリによってしか、私の形も、あなたの形も心も何もかもがわからない。だったら私もあなたもただの粘土のカタマリだ。

2007年05月25日 (12:04)

ゲンカイハレツ

俺は生きているか?

若かれし頃、抱いたあの大いなる自我への問い。

今はもう枯れ果てた、怒り、疑い。

嘆くことさえせずに、ただあるがままを受け入れる毎日。

俺は生きているか?

そういうモノになりたかったんだろう。

静かに咲く花のように、散っていっても誰も哀しまない。

俺は俺はオレは!!!!

生きているかっ!!!!

この涙がまだ本物なら、生きているぜ。

熱くほとばしれ、この俺の思いよ。

言葉になって、誰かに届けなんて願わない。

げんかいはれつっ!!!!

オレは生きているぜっ!!!

全力でこれからも生きていくぜ。

この浮世に、ひとすじの血を残して

消えて行くその日まで、全力で。

魂よ。ほろ苦く、熱く、言葉になれ!!!!
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2007年05月24日 (09:09)

Flavor Of Life 解釈

タイトルは大きく云えば「人生の味わい」、小さくとれば「生活の香り」であろうか。光はそれを「淡くほろ苦いピーマンの天ぷらのような味」と表現していた。一般的に日本語の詩は抽象的になるきらいがあるようだが、そこに巧く日記のような「生活の香り」が注入されている。この二面性が歌詞を構成しているように思えた。

「ありがとう、と君に言われるとなんだかせつない」本来、幸せから発せられたはずの言葉が、受け取った瞬間に別の感情になってしまう。「信じたいと願えば願うほどなんだかせつない」信じたいと願うほどに、「ありがとう」の言葉の中に「ごめんね」が含まれていることを疑わなくてはならないような。だから特別な「甘いだけの誘い文句」には興味なく、信じたり疑ったりする余裕のない、思い通りにいかない時こそを肯定しているようにさえ感じた。

特別に愛してるよりも、普通に大好き。限りある、刹那い、瞬間を。忘れない為に抱く「ありがとう」。それによって、ありきたりな普通の幸せを、素直に喜べるようになりたい。もう特別なものを手にしている筈なのに…、普通のものを求めている。そして両方を手に入れたときに、きっと気づく。雪の冷たさに気づくと同時に、そのやわらかいあたたかさにも気づける。

「ダイヤモンドよりもやわらかくて~」ダイヤモンドよりも硬いものなんてないから、やわらかいものはこの世界全て。単に「ダイヤモンドなんかよりも」という意味だけに終始しない拡がり。ダイヤモンドのように特別なものでも、降り積もる雪のように普通のものでも、それによって得られる気持ちは全て同じものだってことかな。だって幸せに特別なものも普通なものもないのだから。誰だって「ありがとう」といった瞬間に、その言葉によって手に入れることのできる。幸せは、全ては、その瞬間にやってくる。

だからせつないのかな。

2007年05月24日 (08:46)

暮春

 春の終わりの季節の話で、先日、タイトルを「春終」としたが、「暮春」(ぼしゅん)と云う言葉が既にあるようだ。暮れ時の春。暮れ春。クレハル。クレージーハル。やや、偶然にも私のハンドルネームをそのまま漢字にしたもののようであった。過日、本名から由来した雅号は條希とし、字を紫として、紫 條希(むらさきじょうき)なる雅号を作ってしまったが、暮春の方が似つかわしい気もしてきたのだった。

2007年05月24日 (01:18)

映さないモニター

 モニターの向こう側の表情なんて、文字だけじゃわからないよ。感情なんて、言葉だけじゃわからないよ。怒っていると思ってたら、泣いてた。巫山戯てるだけかと思っていたら、本気だった。本当に大切なものに、去って行かれた哀しみ。でもそんなのわからないよ。言葉で聞いて初めてわかったけど、一体、どうしろっていうの?うん、ごめんね、なにか救いを求めるように、元気を与える言葉を求めて、わざわざ来てくれたのに、信じてくれたのに、何もできなくて、むしろ傷つけてしまって、ごめんね。いくら謝っても、もう消えてしまった。言葉も届かないけど、ごめんね。悪者にしないで、面倒くさいのは厭。そして次の日になると、わらってた。やっぱり何もわからないよ。でもそれでいいよ。もうどうでもいいよ。関係ないし。なのにとても気になるよ。こんなに気にしてることを、わからないよね?想い続ければ、いつかまた会えるかも知れないけど、そのときはもう別の名前だから。この文字はもうモニターから消すよ。

2007年05月23日 (11:49)

普通という特別な一日

 朝九時に目が醒めて起きる。二度寝したくなるのを堪えて、とりあえずPCを休止状態から復帰させる。まだみな更新してないようで、特に見るところもない。朝からジョギングにでる。因みにまだ二日目。行き違いで母が犬の散歩にでている。帰ってきてからクランクで腹筋を鍛る。これはもう五日目だ。汗がじっとりとしたところでシャワーを浴びる。出てからコーヒーを入れる。缶コーヒーではなく、ブレンディのインスタントコーヒーだ。もっと自分に合うコーヒーを見つけたいとも思うが、とりあえず明治の牛乳で割って飲む。食パンにとろけるチーズを乗せて焼く。幾分、眠気が冴えた。ソファーに座って、犬を傍らに、テレビをつける。なんたら男とか、なんたら王子の話題ばかり。犬の写真を撮ってmixiにアップする。五行詩の連歌を考えるが、いいのが思い浮かばないので保留。ベットに横たわりたい衝動を消す為に、買ったばかりなEdwinのアンティークウォッシュのジーンズを穿いてみる。昨日、Amazonから三冊の本が届いた。本を買ったのは三年ぶりくらいだ。
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2007年05月22日 (10:12)

思い出せない夢

 どうでもいい夢を見たことを思い出す。でも内容がどうしても思い出せない。思いだして、そのどうでもよさを確認したい。そこで色々な想起する漠然としたイメージと照合するけれど、どれももやもやとした輪郭で、一致しない。そもそももともともやもやしたイメージである夢に、別のもやもやとしたイメージを照合すること自体が、極めて難しいことであるようだ。輪郭のはっきりしない丸い四角に、これまた輪郭のはっきりしない四角い丸を思い描いて、無理矢理はめこもうとするようなものである。存在しないコンセプト同士が、虚しく交錯して、どうでもいい朝の陽射しが、どうでもいい私を照らし、どうでもいいトーストが焼ける。

2007年05月21日 (14:29)

春終

春の終わりの季節が好きだ。これからやって来る、あの鬱陶しい夏の蝉の聲を思い出しながら、ひねもすうたたねる。梅雨が近い。雨の匂いが好きだ。アスファルトのくすぶった匂いのような、まるでどこかの名もなき小さな倉庫に入った時のような湿った、あの窮屈で陰鬱な密室感に、首の下がゾクゾクするような感覚を独り占めしているような気韻。そんな全てが渾然一体となって、私の躰にまとわりついては、目が眩むような、そんな春の終わりの季節が好きだ。
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2007年05月19日 (14:10)

文章表現・作法のフラグメント

 文章・散文詩・歌詞などの文章を、個人レベルで創作されている方のヒントになるような情報、または技法に関する断片(フラグメント)。思考の披瀝を誘発するような題目を考える。

・どのような時に着想を得るか。
・漠然としたイメージを具体的にする。
・文字と文字の間に込める情熱とは。
・平凡な毎日から飛び出た虚言に価値を見出す方法。
・それらしさという表層。
・模倣から換骨奪胎へのシフトにより個性を発露させる。
・世界の捉え方を別視点から再獲得する。
・夢から現実へ、現実から虚構へ、虚構から超虚構へ。
・言葉は紡いだ人物に依りその価値が措定されるのか?
・書くことと、表現することの差異。
・「わたし」の言葉は世界を変えるか?
・伝える言葉、伝えない言葉、伝えきれない言葉。
・隠すための表現、という絶対矛盾の自己同一。
・語感の五感に互換性はあるか?
・愛は言語を超えている。では言語は言語を超えるか?
・死後も遺る私の言葉。しかしその場はネット上。
・言葉を(心に・世界に)残すことの意味とは。
・言葉という遺伝子。
・他我との振幅により結末を飛び越える。


 他、色々とあると思うがエクリチュールのベクトルに行き詰まった時の息抜きや思考の整理をするために書き出してみた。題目それぞれの考察はまだ私の前意識にぼんやりと漂流している。

2007年05月19日 (01:57)

幸せというコンセプト

 今まで健康で無事に生きてこれたことに、いや、生かされてきたことが、そしていまこうして生きていることが、とても有り難く感じた。だってまだ若くて頑張ってる人とか、何も悪いことしてない人が不慮の事故や病気になって亡くなったりしてるのに、私なんて存在してるのが当たり前のように、毎日を過ごすことができてるんだもんね。こうして書くと罪悪感を感じるくらいだ。もうこれ以上、幸せなことってあるかな?ってくらい。「有るのが難しい」って書いて「ありがたい」っていう意味なんだってことを実感として感じることができて、只々感謝。

 でもこういう気持ちもまたすぐ忘れちゃうんだよね。だからいつもそれを思い出せるように、「ありがとう」って気持ちを忘れないで、いろんな音楽や文章や世界に満ち溢れているものに触れて、毎日が感動の嵐みたいな全力の人生を送るぜっ!!…ってなんか言葉にすると綺麗事みたいになっちゃうけど、本当にありがたいっていう実感がね、ぞわぞわと耳鳴りみたいにはり付いて離れない感じなんだ。幸せとか考え出すと、あれもこれもってどうしても欲張っちゃうけど、なんていうかほんの一瞬だけ、そうあの瞬間それだけ、たったそれひとつだけに感謝できただけで、もう全ていいんじゃないかみたいな。結局、全ての幸せは、これと同じ感覚なんだよなぁ…みたいな。

2007年05月18日 (07:15)

ULTRA BLUE

 宇多田ヒカルを聴いている。ウルトラブルーってタイトルのアルバム。ブルーだけだと暗いイメージになるからウルトラを冠したらしい。でもそれだと「超ブルー」って感じにもとれてしまう。実際はもっと深くて、青を超えた青って意味のようだ。COLORSの最後の歌詞に「今のわたしはあなたの知らない色」とあるけど、それがもしかしたらこのウルトラブルーなのかなぁ。

 それは何もかもを吸い込んでしまう色。空のような色。それは自分自身のことのようでもあって何か怖くて、青空さえ怖くなってしまうという。でもそれすらを全て受け入れてしまうような色。 BLUEの歌詞「遅かれ早かれ、光は届くぜ」何もかもが明日へと届く光で、その色は常に変わり続けてもいて、味方によっては同じ色でも、晴れ渡る青空にも、どんよりとしたブルーにも変えることができる。

 宇多田ヒカルはそんな色をこのアルバムで表現したかったのだろう。アルバムのジャケット内部で七色にドレスの色を変える。まばゆく全てを隠しながら、同時に表現する。それはまるでプリズムの中を通過した、光そのものだ。


宇多田ヒカルが語る 新作『ULTRA BLUE』の世界
http://music.jp.msn.com/special/utada/interview.htm

2007年05月17日 (02:02)

食べる男

 男は飢えていた。くたばるのなら何かを残してからにしたい。しかし毎日が最悪の日々。そこから輝かしい何かを、たとえ生み出すことができたとしても、そこには虚言が含まれている予感に絶望した。

 それならいっそのこと全てを食べてしまおう。男はその絶望を食べた。とても苦いとしか言葉では表現できない味がした。そして希望を含んだ予感さえも食べてしまった。こんなものがあるからわたしは…。

 男は次々と身の回りにあるモノを、ガイネンを悉く食べ尽くしていった。まるで萩原朔太郎の詩にある蛸のように。愛を孤独を、自由を涙を、この道を、悲しみから幸せへと繋がる糸さえも。

 なくなった。とりこんだ。もどした。でていった。おいかけた。

 依然として男は飢えていた。全てを表現し尽くした筈なのに。今日もなにひとつとして充足しない。それなのにまだ男はくたばらない。誰にも見えないこの心は、あの蛸の身体と同じように、色もなくこの世界の背景に溶け込んでいる。

 そして男は自らそれを望んでいる。誰からも食べられないように…。

2007年05月16日 (13:21)

鮮暗

絶望と希望が踊る 鮮やかにその暗がりに 溶けこむ光

短歌の解説

昨夜、キリヤ氏の映像を観ていて「鮮やかさ」と「暗さ」は、一見、対立するようでいて、実は同居できることに気づかされた。このもどかしくもあるが心地よい感覚を短歌にしてみた。まるで深海の底に差し込んだ光を眺めているような幻想的な映像。鮮やかさと暗さが同居可能ならば、その逆に「くすんだ感じ」と「明るさ」もまた同居することができるのだろうという確信。それは古いフィルムで撮った露出過多気味の写真などに発露するあの感覚だ。川内倫子の写真などは一寸それに近い。私はそれをうたたね調と呼んでいる。このキリヤ氏の感覚は鮮明の明の部分だけを逆にして「鮮暗」と勝手に名付けてみた。こんな感じでいろいろな対立する概念が実は、同居しながらその色を醸し出している、と云う世界の見方を再獲得できたような気がしたのだった。
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2007年05月15日 (00:10)

心配性の末路

そとにでると
危ないよ
車に轢かれて
死ぬかも知れない
海外なんて
もってのほかだ
銃で撃たれて
死んでしまう
国内だって物騒だけど
第一
家にいるのも危ないよ
地震で家が潰れる
そもそも
君が動くと危ないよ
誰かが傷ついて
終いには
世界が壊れてしまう
だから
何もしない方がいいよ
ただじっと
佇んでいればいい
息をしないで
酸素が減るから
エネルギーを
消費しないで
公害が起こるから
何も言わないで
誤解するから
がんじがらめになって
身動きができずに
眠るように
倒れ込んで
宙を仰ぐ
私の瞳に
太陽の
光が
映る
空は
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2007年05月14日 (04:09)

神さま

 以前、身内のお葬式で、合間の食事中に親戚がお坊さんに「問う」ていた。何の宗教か知らないけど、神さまがいて天災が起きてて、溺れる人や逃げまどう人が沢山いて…、その中にはその神さまを信じてる人や、信じてない人や、そもそもそんな神さますら知らない人がいて、じゃあ一体、その神さまは一番最初に誰に手を差しのべて救ったかっていう問いだった。お坊さんは悩んでいて、結局、何を答えたかは覚えてないんだけど、そこで親戚は、その神さまは「一番、近くにいた人にまず手を差しのべた」とかなんとか言ってたんだ。神さまはその人が好きだったのか嫌いだったのか、愛していたのかさえ、神のみぞ知るって感じだけど、そもそも好きとかいう感情ってなんだろう?って考えた。それはもしかしたら自分との距離なんじゃないかな。例えば比べようもないものを、どちらが好きかと問われたりしたとき、どう答える。大切な人Aと大切な人Bが同時に崖から落ちそうになっていたらどっちを助ける?とかいう究極の選択をされたときに「好きな人のほうを助ける」って言ったら残酷だけど「自分から少しでも近い人を助ける」って答えれば、ある程度の罪悪感を回避できる。でも待てよ。もし私が神さまだったら、最初から天災なんて起こしたくない。そもそもその神さまは人間に対して好きなんて感情はなかったのかな。それじゃあなんで神さまは近くにいた人を救ったんだろう。

2007年05月13日 (00:23)

Flavor of 光

 彼女の言葉…声で目覚める。毎日がとても気になる。顔を見てはにかむ。写真を壁紙にしたりする。大森大道が撮ったポスター。オークションで落とそうか。点々と言葉を辿る。生々しい映像に涙する。考えを、気持ちをもっと知りたいと思う。彼女が読んでいた同じ本を読みたい。ゲーテ、谷崎潤一郎…。書店に寄った。そういえば散文詩を朗読していた。深い川。谷川俊太郎の詩集が目に留まり、何気なくページを捲る。「鳥」のページ。鳥は空を名付けない云々…。とても親近感を覚える。恋でも愛でもないけれど、こんな素晴らしい感情を名付けたくもない鳥の気持ちだ。決して手の届かない所にいる。それは青空を見てブルーになるくらいの、いっそウルトラブルーにしてしまえるくらいの、空が目をとじるくらいの。けれどせめてそっと見守りたいような感覚。別れた彼の呟きと共に。ふたりをそっと見守っていこう。心があたたかくなった。淡くほろ苦いピーマンの天ぷらのような。人生そのものだね。

http://www.u3music.com/top.html

http://web.mac.com/kirikiri2/iWeb/kiriya.com/kiriya.com.html

2007年05月11日 (09:39)

別れの歌

去る人を追うことをせず立ち止まり佇む時はなにを想わん

短歌の解説

「佇む時」とは時が佇んでいるという意味の擬人法が含まれている。この場合、「人」と「時」には、ほぼ等価な二者の関係性が成り立っていることに注目してほしい。つまり去って行く人とは、去って行く時でもあり、また佇む時とは、佇む人でもあるのだ。であるから佇む人を、時が振り返り、あの人は何を想っているのだろうか?という視線と同時に、去る人を、時が追いかけられずに立ち止まっているという視線が、静動一如となりひとつの歌の中に織り込まれている。それはつまり人と時の別れであり、人と人の別れによる永遠の関係である。
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2007年05月10日 (01:56)

光の歌

太陽が光ると月は涙した 地球はそれをみて動きだす

短歌の解説

太陽と月と地球。一見、離ればなれで何の関係もないのに、見えない重力という力によってお互いに影響し合っている。そして私はそのことを普段、忘れながら暮らしている。こんなに身近にあるのに、人と人と人との間にさえ、そういう見えない関係がある。それは「幸せ」だとか「愛」だとかいう一見、嘘くさくもあるが果てしない重力をもった言葉になって繋がり、そして私はそのことを普段、忘れながら暮らしている。あるとき私にとってとても大きな存在が現れる。彼女は太陽だ。まるで光を放っているように眩い存在に、私は忘れていた何かを思いだして落涙する。そのとき私は月になる。そしてきっと地球は明日への希望となって動き出すのだろう。目下…、私にとっての太陽はモニターに映りてはヘッドホンに流れる歌声であり、希望は手付かずなまま机上に山積している。
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2007年05月09日 (00:07)

捨てる歌

捨てるほど我が世界にモノ溢れクズに溺れて消え行く境


短歌の解説

モノを捨てれば捨てるほど、無駄なモノばかりであったことにまざまざと気づかされて、なんだか部屋にあるものがクズばかりに思えてくる。その中に溺れればどこまでが私のモノであり、どこまでが私のモノでないのか、その世界の境界線さえも消えてゆき、果たしてそんな境界線で区切ることの意味さえももはや消えゆくようで、それに酔いしれるようにまた捨てているようにさえ思えてくる。
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2007年05月07日 (21:59)

フィッシュアイ

lomo_fisheye2.jpg


 LOMO FISHEYE2で撮影したフィルムを現像+プリントしてきました。これは超広角170度の魚眼レンズで、ワイドな円形の写真を撮れるトイカメラです。周囲が若干暗くなったりするので、夢の中の視点のような不思議な感覚の写真が手軽に撮れます。フィルムは普通に35mmのISO400使用で、電池は単三電池1本で撮影できます。さらに上部にちょんまげみたいな広角ファインダーまでついてるすぐれもの!フラッシュもついてるし、バルブ撮影や多重露光撮影までできます。フィルムの現像はデジカメにはない感覚で…、ドキドキしながら写真を見ると期待以上の仕上がりに感動ものでした。


fisheye_photo.jpg

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