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2015年11月03日 (12:46)

「想いを超えろ」というキャッチフレーズについての考察

この世界は、人々の想いによって形成されている。家も、道路も、電柱も、机の上の消しゴムも、時計も、もちろん本も。みんなみんな生きてはいないが、想いによって作られているのは事実だ。想いとは頭の中で考えたことだ。つまりぼくたちは誰かの想いの中に閉じ込められて生きている。良かれ悪かれ。街そのもの、世界そのものが、誰かの想いであり、誰かによって思索された、脳内のニューロンにより伝達された電気の運動によって発生している。

しかしあの雲は、空は、太陽は。違う。誰の想いにも左右されていない。神は。紙は。髪は。その境界線はどこにあるのだろうか。誰かの想いのひとつは、この私の想いのひとつでもあり。私の想いが、この今日の青空に浮かんでいる雲の形に影響を及ぼすとは思えない。しかしいつか誰かの流した涙だとか、そういうセンチメンタルな感情を持ち込む猶予もなく、何かしらの公害によって影響を与えている事実はあるかも知れない。しかしそこに意味はない。

想像の果てにある世界。つまり誰も見たことのない世界を作ること。それが想いを超えることの意味だ。しかしあの雲は、空は、太陽は、私のいかなる想像によっても微動だにしない。宇宙などもっての他で、私が世界を観測することで量子力学的なパラドックスが発生したとしても、それは無矛盾を証明するための背理にはならないのだ。つまりいかように想いを馳せたとしても、世界は可能性を超えることはなく、蓋然性の中に収斂してしまう。それは既に決められたジグソーパズルを解くようなものであり、発見と発明との差異すらもなくしてしまう。

言葉を超えた先にあるのが、詩で。詩を超えた先にあるのが愛であるなら、想いを超えた先にあるのはなんだろうか。それは支配されたディストピアかもしれないし、決して帰ることのできないユートピアかもしれない。私の脳は脳を超えられない。想いは想いを超えられない。そういったトートロジーにさえ陥りそうになるなかで、それでもなお想いを超える方法。それは今を生きること。未来を急がず、過去にとらわれず、今をただ、この青空のもと、ゆっくりと洗濯物を干すようなものなのかも知れない。

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2015年10月29日 (22:51)

Memory

設定ではなく、自分にはある特殊な能力があることに気づいた。

それはかなり事細かに誰が何を言ったのかを覚えていると言うことだ。それはほぼ物心つく頃までにさかのぼることができる。会議などをやっても議事録を作る必要がないほどに覚えている。かといって暗記が強いという感覚とは違う。もちろん忘れてしまったことは、覚えていないという認識が自己の閉回路内のみでは不可能であるという点に於いては、本当に全てを覚えているという分けではないと思うが、それにしても状況記憶に言葉の記憶が強くともなっている。この記憶の強化は、ある筋道を通して感情的に納得し、且つ論理的整合性によって整理されている言葉の記憶がすなわち強く海馬を超えて残っていると推測される。

最近これの弊害に陥りつつある。それはあるちょっとした過去の記憶の糸を辿っていると、そこから芋づる式に記憶が引き出されてしまい、脳内がオーバーフロー気味になるということだ。もちろん自制することはできる。それは今というリアルに集中することで、その回路を遮断するという方法だ。そこで考えた。全ての記憶が同時にフラッシュバックしてきたらどうなるのかと恐怖する。
まるでセフィロトの樹のように体系化された全体の散逸構造が焼き付くようにせまるイメージ。少しドキドキして、自制せずに耽溺しようとも思うが、吾が脳が耐えられそうにもない。

この記憶の累積によって、今のこの存在の自我が形成されているというのに、それをかたくなに拒否していることに矛盾を感じずにはいられない。とても無意味な気がしてきて、孤独感にさいなまれる。今にも愛する人に寄り添いたいとも思う。今にも満天の星空を眺めることで忘れたいと思う。今にも目の前のスマホに集中することで狂気を回避したいと思う。今にも忘れてしまいたいと思う。ただそのためだけに眠ってしまおうと思う。忘れることは幸福である。しかし目覚めてもなお私が私でいられることも幸福である。たくさんの景色を、写真におさめたいと思うことに一抹の疑念がよぎる。こんなにもたくさんの素晴らしい景色を、写真におさめ、記憶を固定してしまって、私はその膨大な絵の洪水に耐えられるだろうか。その膨大な絵の集積が私という存在にどのように関わり意味しているというのか。それがもし無意味なものなのだとしたら。一体この私はどこにいて、何にすがればいいのか。私が私であることの意味を、写真は教えてくれるのだろうか。それを探すために、撮り続けることに果たして意味があるのだろうか。

ただ結局、そんなことを言ってしまえば何をしても同じなのだ。釣りをしようが、山に登ろうが、散歩をしようが。ではなぜそのような行動を起こすのか。何の為に?そこに山があるからだなどというのはもはや戯れ言。嗚呼、そうだ。私は唐突に無性に、愛したい。ただそれだけなのだ。記憶することが愛ではない。記録することも愛ではない。愛することを記憶し、愛したことを記録する。
私はハードディスクに記録されたデータではなく、さりとてハードディスクに記録することで私が発露するでもなく。その狭間でゆらぐただの、ただの、ただの。。

2015年10月25日 (18:32)

言海波列

脳は老化し新しい概念を取り入れることもできずもはや言葉は無に等しい。ネットの情報の海に溺れて波にさらわれた私はどこにいるのだろう。列をなす私 私 私。私たちがこっちを視ている。何も考えられないのではない。言葉がでてこない。とても高見にいる気分で背伸びをしてしまったから。年相応に見苦しくない存在でなくてはと無理をして。だけど!着地しなくてはならない。求められないことを求めるようになって。私は守るべき存在も、失うものさえもないような、実感のなさが支配する。そう、こうして、少しずつ着地するように、足元をまさぐるようにみにくい言葉でも。徐々に列をなして、波となって、海となって、私を飲み込んで。

2013年09月16日 (06:02)

写真と想い

「写真は想いが入ってないと撮る意味がない」という言葉を耳にした。
ただ好きだと思ってシャッターを切れば、そこにはすでに想いが入っているはずだと応えた。が、
写真と想い(思い)について・・・
そもそも想いの入っていない写真などは撮れない気もする。
どんなに適当に、徒にシャッターを切ったとしても、そこには何かしらの意図が介在している。
写真と想いは切っても切れない。それでいて実はこの両者は決定的に乖離している。
撮った写真には、触れることはできないという意味においては、物理的に解離さえしている。
どんなに言葉で花の美しさを語ろうと、その言葉は花自身に触れることはできない。
同じように、どんなに美しい花の写真を撮ろうと、その写真は花自身に触れることはできない。
写真も、詩も、この絶対的な断絶から始めなければならない。そして永遠に辿り着くことはできない。
その絶望を知っているからこそ、想いが入っていないと撮る意味がないという言葉が生まれたのかも知れない。
僕が街並みを撮るとき、この眼前に広がる風景が、
いつか滅びて廃墟になってしまう遠い(?)未来を想いながらシャッターを切っている。
いつもいつもではないが・・・ただ何かしらのセンサーが反応してピンときたから
「好きです」と告白するようにシャッターを切ることもある。
その逆に、誰もいない風景には、いつかいたであろう過去の人たちを想いながら撮ったりもする。
いつもいつもではないが、嫌いなものに敢えてファインダーを覗く場合もある。
そしていつかその写真を見返したときに、懐かしいなと感じる未来は、果たして幸福だろうかと考える。
その写真はおそらく自分の死んだ後にさえ、想いを含めてある程度の期間は残り続けるだろうが、
そのハードディスクの奥底で、はたまたflickrの片隅で眠り続ける写真の意味とは何か・・・
写真はそういった懐古主義的且つ刹那的な想いが入った時点で、皮肉にも永遠性が失われている。
先日、観に行ったアンドレアス・グルスキーがそれを見事に看破していたように。
想いは永遠には続かない。命は短い。Art is long, life is short.
その想いが残ってゆくことは、誰かにとって意味があるか。大仰に云えば、世界にとって意味があるか。
伝わって欲しい想いと、伝わって欲しくない想いもまたあって、
それは巧妙に暗号化されて、言葉や写真の中に閉じ込められている。
その鍵は、自分自身の心の中にしかない、と信じている。
誰にも開けることができないと信じられつつも、誰かに開けて欲しいという矛盾した、
暗号化された想いが、いたるところに転がり始めて、
繋がっていた想いは、線となり、点となり、やがて時間という波の中に消えて行く。
それを繋ぎとめる為の、手段としての写真。カメラと想いが反応した結果としての写真。
僕はなぜ写真を撮るのか?それは僕がこの世界に生まれてきたからなのだろう。
だが想いとはひとつのフィルダーにすぎない。それは減光フィルターなんかと同じくらいの要素なのかも知れない。
それは幾重にも重なり合って、誰かのフィルターすら通されて、
もしかしたらまったく別の世界がそこには生まれているのかも知れない。
存在することの意味・・・否、存在することに意味はない。ただそこに在りたい。
言葉がそこに在るように、写真がそこに在るように、自分もまたそこに在りたい。
写真にはそういった「想い」を超えた、「願い」が込められている。

2013年08月10日 (07:33)

どの空

車を運転していると「あなたは今、どの空を見ているの」とラジオから聞こえてきたので、何気なくふと空を眺めてみると、私の見た空は「どの空」のひとつであったことに茫然としたのだ。「この空」が、まるで私ではない誰かが見ている「どの空」のような感覚に陥ったのである。今、思い出すようにしてそのとき見た空を思い出せば、やはりそれはどの空なのであって、この空ではない。そして今、まさに窓から空を見てみても、その感覚は持続していて、私の自我とこの空の時系列が一致しないのである。そしてやがてこの私はどの私であるのかを疑い始めるという予定調和に至るのである。

2013年05月22日 (00:01)

人生はメリーゴーランド

ふと、人生はメリーゴーランドのようですね。という結論にいたるのです。それはありふれた言い回しのようにも思えますから検索すればどこかの誰かが言葉にしているようにも思えるのです。が、しかしとりとめもないこの思考回路を、一時的にテンポラリーしというトートロジーを利用しつつもその場にとどめさせようとするのはやはり本能なのでしょう。ですからもう決して止まらないようにするなどというのは正気の沙汰とは思えないのです。脳が経年劣化をし、方向が多岐にわたり、指向性が保てなくなってきたようです。あるひとつの議題について自律系を保ちつつ考察しながらも、あらゆる世界を内包しようと必死になっているのは何故なのか、その理由さえもすでにどこかの誰かによって定義されているのでしょう。自我の枝として、心象風景を写実すれば、表現としては感動的かも知れませんが、今の時点で感じている感覚としては、伝えるにあたいしないこの猥雑な生暖かさでしかありません。太陽がサングラスをかけて私をにらむのなら、私はあるいはこの言語内に於いて核融合反応を起こしうる蓋然性を有しているのかも知れません。嗚呼、このあらゆる乖離!解離!にも関わらず疎ましくエンタングルメントされる不条理な意味と思わせぶりな意味。その可能性の世界が重なり重なり重なり。やがてその中のいずれかを選択する意思が私にあるというのでしょうか。それはいつ選択されるのでしょうか。今でしょう。人生はメリーゴーランドのようですね。私という存在は一体全体その中のどこにあるのでしょう。メリーゴーランドそのものなのか、はたまたメリーゴーランドの馬なのか。またはそれらを回す目に見えない電気的な何かなのか。はたまたそこに乗っている誰か、なのか。それをただ傍観している視点でしかないのかも知れません。あるいはその不思議の環の全て!なるほど確かに救いがたい。この脳内の飛散具合は全てに於いて絶望的な状況下で、為す術もないように思われます。脳内の恣意的な吐露によって、重ね重ねはき出された言語的な累積に於いて散逸構造が見いだせないままオーバーフローする予定調和として失敗するのでしょう。説明しようとすればするほどに言葉になり。存在しようとすればするほどに詩になるとするなら、真実を写しとることは、その光景を説明することなのか、はたまた永遠にその場にいつづけたいという願いであるのか、判断はできません。ただその瞬間、確かに存在したという証。言葉では決して触れることのできない二次元的な風景の中で、心と詩は共に佇み続けるのでしょう。だとするなら人生は一枚の写真に過ぎないのでしょう。その一枚は多面体テレパシーによって、多角的に定義され、あらゆる方向からの言葉を反射しながら、吸収し、また反芻をしながら、きわめて歪に肥大化してゆくのです。どんなに大きな塊になっても、それは決して正確に表現することができません。私がそれをいかに想ったか、希ったかすらもう幻想のように朧気で、不確かで、もう心の中には何もないようですらあります。だとするならば私にできることはただひとつ。それを愛と定義することなのです。

2012年10月01日 (07:29)

同じ風

ベッドに横になって目をつぶり、僕は何かを思い出そうとしていた。何を思い出そうとしていたのかはわからない。その感覚自体はなぜだか懐かしい。ただ思い出せないつらさと、忘れてしまった罪悪感だけが漂っている。もう少しで思い出せそうな名前と消えていった言葉たちの物語が、形をなせないで脳の枝葉末節に潜んでいる。それを無理矢理、思い出そうと引きずり出すように、思いを馳せると、まるで狂ってしまいそうな目眩に襲われる。そっとしておこう。乖離してしまった過去に自己同一性を求めることは危険だ。そこには数多の言葉の屍があるだけで、決して返事はないただの屍のようだ。消えていった言葉、失われた物語、朽ち果てていった思い、その結果としていまこの世界があるんだ。そういう忘れてしまった部分も含めて自分なのだから。全く僕の知らない世界を含めて、この世界があるんだ。五番街のマリーのメロディーが夢の中で鳴り響いた。「同じ匂いを愛した」「誰もいない川辺」「同じ風」断片的な言葉たちがそのメロディーに乗り、とてつもない洞察を得るように唆されているような気がしてくる。誰もいない風景を眺めながら僕は…と、そこで覚醒。なぜそんな古い曲が夢の中に出たのかはわからないが、狂ってしまいそうな目眩がその同じ風によってすっかり吹き飛ばされていたのだけが救いだった。窓から外を眺めると、台風もすっかり過ぎ去っていた。

2012年06月13日 (21:50)

僕はここにいるよ 疑いようもなくね
だから迷うことは一切ないんだ
何もかもがうまくいくから
理由なんて必要ない
ただ結果があれば
それが存在している意味だ
生きるか死ぬかなんていう問いなど無意味だ
生きるしかない 生きるしかない それしか選択肢にない
むしろ選択肢すらならない 一択なんだ
世界は観測することではじめて存在する
だとするならどういう観点で観測するかが重要だ
君の見たい世界だけが見えるから
見たくない世界はもはや見えない
それでも絶望や 闇や 虚無が 見えてしまうのは
君が願ったからだろう
つまり幸福に飽きるという贅沢の末路だ
光と闇 その両方を欲したばかりに
でも もう 光だけでいい筈だ
そう 祈ろう そう 想像しよう
だから もうこの瞳には 光しか映らない
それならば 僕は 光だけを見ればいい
全てはあらゆる可能性のなかにあって
アトラクターフィールドによって収束するとするなら
もはや可能性は蓋然性を飛び越えて
必然性に収束する そして運命は貫かれる
対立する概念も 言葉も 何もかもが ひとつになり
僕はその世界に満ちた光を 創造する
無限の可能性に満ちた世界は
現実となり そして現実は 光に満ちる
そうすれば たったひとつの言葉の中にすら
世界は存在して 僕は存在して
君は存在するよ 疑いようもなくね
もう明日は必ず 明るい日しかないことになったんだ

2012年05月28日 (00:53)

無駄文

この世界に無駄なものなんてない。もし無駄なものがあるとするなら、そんなものは必要のないもの。なくなっても誰も気が付かないもの。無駄があるからこそ、無駄でないものが引き立つなどという考えは傲慢だ。寧ろ「無駄」という言葉そのものが内包している。その後に続く、あるだとかないだとかいう判断を。。必要があるだとかないだとか、意味があるだとかないだとか、価値があるだとかないだとか。あるかないかだけでしか、概念の判断ができなくなってしまっているのは、思考停止と同義であり、エポケー以前の問題だ。世界には無駄なものが溢れ、必要のないものたちが堆く積もり、価値のないものが跋扈し、思考すらないものたち、皆が皆同じ道を歩もうと、意味もなく往来をたゆたむ。信実を含まないつぶやき、現実にあまえた妄想、意志のない同じような明日、無自覚に過ぎゆく時間、何者も侵さない部屋、情熱に麻痺した脳、無限ループする変化の方法。言葉。。纏うほどに剥がされてゆく自我、剥がすほどに見えなくなる心、右往左往するひとつがふたつになり、千の言葉に伝える力はなく、たったひとつの言葉が命を、生と死が同じと証明するためだけの慰め、それならひとつもふたつも変わらない、全にして一なら、一にして全、だから宇宙は、私のものだ。だから私は、宇宙のものだ。

2012年03月29日 (06:41)

不可逆のリブート

私だけの世界。同じ毎日。全てがどうでもよくなる。失敗した人生。無意味な生き方。脱出不可能な闇。死の再起動。衝動なき虚無。間に合わない助走。空へと飛び出す。落ちて行く永遠。不可逆な大地。差しのべられた、手。
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