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2016年01月23日 (15:49)

もう私には

何も語ることがない。

そこからはじめることができる。

いつもゼロから始まる。

その状態であることに不安を覚えるから。

ただただ存在したいと希う。

きっと宇宙もそんな気持ちで生まれた。

そんなわけもなく。

何も考えずに生まれ。

この私とて何も想わずに生まれてきたではないか。

宇宙を責めるなかれ。

そこに罪はなしよりのありか。

ありよりのなしか。
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2015年11月03日 (12:46)

「想いを超えろ」というキャッチフレーズについての考察

この世界は、人々の想いによって形成されている。家も、道路も、電柱も、机の上の消しゴムも、時計も、もちろん本も。みんなみんな生きてはいないが、想いによって作られているのは事実だ。想いとは頭の中で考えたことだ。つまりぼくたちは誰かの想いの中に閉じ込められて生きている。良かれ悪かれ。街そのもの、世界そのものが、誰かの想いであり、誰かによって思索された、脳内のニューロンにより伝達された電気の運動によって発生している。

しかしあの雲は、空は、太陽は。違う。誰の想いにも左右されていない。神は。紙は。髪は。その境界線はどこにあるのだろうか。誰かの想いのひとつは、この私の想いのひとつでもあり。私の想いが、この今日の青空に浮かんでいる雲の形に影響を及ぼすとは思えない。しかしいつか誰かの流した涙だとか、そういうセンチメンタルな感情を持ち込む猶予もなく、何かしらの公害によって影響を与えている事実はあるかも知れない。しかしそこに意味はない。

想像の果てにある世界。つまり誰も見たことのない世界を作ること。それが想いを超えることの意味だ。しかしあの雲は、空は、太陽は、私のいかなる想像によっても微動だにしない。宇宙などもっての他で、私が世界を観測することで量子力学的なパラドックスが発生したとしても、それは無矛盾を証明するための背理にはならないのだ。つまりいかように想いを馳せたとしても、世界は可能性を超えることはなく、蓋然性の中に収斂してしまう。それは既に決められたジグソーパズルを解くようなものであり、発見と発明との差異すらもなくしてしまう。

言葉を超えた先にあるのが、詩で。詩を超えた先にあるのが愛であるなら、想いを超えた先にあるのはなんだろうか。それは支配されたディストピアかもしれないし、決して帰ることのできないユートピアかもしれない。私の脳は脳を超えられない。想いは想いを超えられない。そういったトートロジーにさえ陥りそうになるなかで、それでもなお想いを超える方法。それは今を生きること。未来を急がず、過去にとらわれず、今をただ、この青空のもと、ゆっくりと洗濯物を干すようなものなのかも知れない。

2015年10月30日 (06:45)

五行詩

叫びはもう 写真になった笑顔には 聞こえない

佇むひとりの少女 その横顔は哀しげで 美しい

どこかの車窓からみた光景が 流れて行く あたたかに

そこで戦慄する これだと思う 覚悟を決める

そんな夢をみて 目醒める朝 私の人生が 少し変わる予感

2015年10月29日 (22:51)

Memory

設定ではなく、自分にはある特殊な能力があることに気づいた。

それはかなり事細かに誰が何を言ったのかを覚えていると言うことだ。それはほぼ物心つく頃までにさかのぼることができる。会議などをやっても議事録を作る必要がないほどに覚えている。かといって暗記が強いという感覚とは違う。もちろん忘れてしまったことは、覚えていないという認識が自己の閉回路内のみでは不可能であるという点に於いては、本当に全てを覚えているという分けではないと思うが、それにしても状況記憶に言葉の記憶が強くともなっている。この記憶の強化は、ある筋道を通して感情的に納得し、且つ論理的整合性によって整理されている言葉の記憶がすなわち強く海馬を超えて残っていると推測される。

最近これの弊害に陥りつつある。それはあるちょっとした過去の記憶の糸を辿っていると、そこから芋づる式に記憶が引き出されてしまい、脳内がオーバーフロー気味になるということだ。もちろん自制することはできる。それは今というリアルに集中することで、その回路を遮断するという方法だ。そこで考えた。全ての記憶が同時にフラッシュバックしてきたらどうなるのかと恐怖する。
まるでセフィロトの樹のように体系化された全体の散逸構造が焼き付くようにせまるイメージ。少しドキドキして、自制せずに耽溺しようとも思うが、吾が脳が耐えられそうにもない。

この記憶の累積によって、今のこの存在の自我が形成されているというのに、それをかたくなに拒否していることに矛盾を感じずにはいられない。とても無意味な気がしてきて、孤独感にさいなまれる。今にも愛する人に寄り添いたいとも思う。今にも満天の星空を眺めることで忘れたいと思う。今にも目の前のスマホに集中することで狂気を回避したいと思う。今にも忘れてしまいたいと思う。ただそのためだけに眠ってしまおうと思う。忘れることは幸福である。しかし目覚めてもなお私が私でいられることも幸福である。たくさんの景色を、写真におさめたいと思うことに一抹の疑念がよぎる。こんなにもたくさんの素晴らしい景色を、写真におさめ、記憶を固定してしまって、私はその膨大な絵の洪水に耐えられるだろうか。その膨大な絵の集積が私という存在にどのように関わり意味しているというのか。それがもし無意味なものなのだとしたら。一体この私はどこにいて、何にすがればいいのか。私が私であることの意味を、写真は教えてくれるのだろうか。それを探すために、撮り続けることに果たして意味があるのだろうか。

ただ結局、そんなことを言ってしまえば何をしても同じなのだ。釣りをしようが、山に登ろうが、散歩をしようが。ではなぜそのような行動を起こすのか。何の為に?そこに山があるからだなどというのはもはや戯れ言。嗚呼、そうだ。私は唐突に無性に、愛したい。ただそれだけなのだ。記憶することが愛ではない。記録することも愛ではない。愛することを記憶し、愛したことを記録する。
私はハードディスクに記録されたデータではなく、さりとてハードディスクに記録することで私が発露するでもなく。その狭間でゆらぐただの、ただの、ただの。。

2015年10月29日 (22:46)

五行詩

二次元の紙に 二次元の私が 二次元の君を

切り刻んで 焼き尽くして 恋い焦がれて

時が止まり 永遠になった Z軸さえも幻想として

脳裏に刻まれた いくつもの世界が わめき散らす

叫びはもう 写真になった笑顔には 聞こえない

2015年10月25日 (19:03)

五行詩

白い紙に いくら白い線を書いても もう伝わらない

はじめから 伝える気持ちなんて なかったんだ

だから当たり前のように あなたはいつまでも他人のまま

友達という枠組みにおさめることで 恋人も 伴侶もえることなく

二次元の紙に 二次元の私が 二次元の君を

2015年10月25日 (18:32)

言海波列

脳は老化し新しい概念を取り入れることもできずもはや言葉は無に等しい。ネットの情報の海に溺れて波にさらわれた私はどこにいるのだろう。列をなす私 私 私。私たちがこっちを視ている。何も考えられないのではない。言葉がでてこない。とても高見にいる気分で背伸びをしてしまったから。年相応に見苦しくない存在でなくてはと無理をして。だけど!着地しなくてはならない。求められないことを求めるようになって。私は守るべき存在も、失うものさえもないような、実感のなさが支配する。そう、こうして、少しずつ着地するように、足元をまさぐるようにみにくい言葉でも。徐々に列をなして、波となって、海となって、私を飲み込んで。
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